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2ピアノ4ハンズ 日生劇場 [演劇]



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今日は平日ながら会社は休み。一日地元でゆっくり過ごす予定だった。早起きして、忙しさに負けてこの頃すっかり練習を怠けていたチェロを弾きだしたら止まらなくなって3時間が経っていた。さすがに疲れてしまって、さて夕方のレッスンまでどう過ごそうかと思っていたら、急に閃いたので上京して日生劇場で来日公演中の『2ピアノ4ハンズ』を観ることにした。自宅から劇場そして練習場というまさにトンボ帰りの弾丸ツアー状態だった。

前回8年前の来日公演のことは全く知らず、たまたま新橋演舞場のポスターやら歌舞伎の筋書に広告が出ていたので、このユニークな舞台の存在を知ったのだが、観る観ないは別にして演劇にはアンテナを張っているつもりだったのに全く引っかからなかった。案の定、月曜日の13時半開演では観客の大半は高齢者ばかりで空席が目立っていた。確かイープラスの「得チケ」でもS席が5000円くらいででていたような気がする。

今回はオリジナル・キャストで作・演出を担当もしているテッド・デクストラとリチャード・グリンブラッドが出演。宣伝用のポスターでは若々しかったのに、流石に年齢を重ねてきたので二人とも、すっかりオジさんになっていた。カナダでの初演、ニューヨークのオフ・ブロードウエイやロンドンでもロングラン公演を成功させ、他のキャストでの公演や各国のプロダクションを加えると200万人もの人々が観ているそうである。

登場人物は二人だけ。舞台には天版が外されたYAMAHAのフルコンサートピアノが2台向き合うように置かれている。背景には大きな額縁が二つ。下手側は縦置き、上手側は横置きで背景は黒一色。上手側の額縁の上に横2列で字幕がでる仕掛けなので、オペラなどと違い科白の意味も演技も両方とも視線に入るので英語上演といいながら字幕映画を観ているかのように楽しめた。

上手側のデッドはブラックタイのタクシード姿で、下手側のリチャードはホワイトタイの燕尾服姿で登場。最初のバッハの「チェンバロ協奏曲 ニ短調 第一楽章」が演奏されるまでは、コント風のやりとりがあって笑わせるが、演奏が始まると素人のレベルとは違った音楽が流れてきて驚くという仕掛け。玉三郎の「阿古屋」や自由劇場の「上海バンスキング」など役者が楽器を演奏することなど珍しくもないが、プロ並みの腕前を持った男性俳優が二人揃うというのは、なかなか日本ではないことである。

結局、冒頭の曲は最後まで演奏されずに、上着を脱ぐことによって、交互にピアノ教師などを演じ分けるという演劇的な手法で物語が進んでいく。小さな子供たちが遊ぶ時間もなくピアノのレッスンに明け暮れる話とか、調号がいっぱいついた調性、和音、音符の長さのカウントなど、さっきまで楽譜と格闘していた身にとっては、いささか耳の痛い話が続いて大いに共感できた。

物語は子供には単調で辛いレッスンの日々、小学生時代のコンクールでの緊張や失敗。親が練習を強要したり、学業を優先させるため逆に禁止したり。とピアノを習ったことのある子供なら誰でも同じような体験をしたであろうことが次々に起こる。ピアノ教師も様々でかなり怪しげな教え方の先生なども登場する。第1幕でのお気に入りは、口うるさくレッスンを強制する父親を演じているテッドの胸で子供の役を演じているリチャードが泣く場面。自分自身と父親の関係を見るようで泣かされた。

第2幕は、少年から大人になりかけ、10年以上の歳月を費やして世界的に活躍するピアニストを目指した青年達が直面する厳しい現実が描かれる。クラシックの音楽院への進学では手厳しい判断をされるし、クラッシックからジャズ・ピアニストへの転向を目指そうにも、より厳しい拒絶にあう。第1幕で観客の誰もが思い描いたピアニストとして成功する結末はない。アルバイト?のピアノ教師ではピアノを弾くよりも生徒の世間話に終始してしまうし、バーでの弾き語りでは、誰もピアノを聞いてくれなくて酔っぱらいに不愉快に絡まれたりする。ここでは天使が大好きな『ピアノ・マン』がミラーボールで回る中で歌われた。

そして最後に二人は燕尾服に正装して、最初に演奏されなかったバッハの『チェンバロ協奏曲 ニ短調第1楽章』をコンサートのように弾いて幕となる。苦い結末だけれど、これが多くのピアノのレッスンを続ける人々の姿なのだと思う。それはピアノに限らず、多くの人々が夢を実現できずに生きていることに似ている。

最後はアンコールとしてバッハのカンタータ 第208番 楽しき狩こそわが悦び(狩のカンタータ)BWV 208 2台のピアノ編曲版が演奏された。NHKFMの「朝のバロック」のテーマ曲としても有名なのだが、二人によって演奏されると、その繊細さと優しさが際立って美しく響いて深い感動があって終演後もしばらく席を立てずにいた。

東京公演は20日まで。その後、23日に仙台、26日に名古屋、6月に入って3日まで大阪松竹座で上演される。

第1幕 13:30.〜 14:20

幕間 20分

第2幕 14:40〜15:45

MUSIC LIST

チェンバロ協奏曲 ニ短調 第一楽章(バッハ)

ハート・アンド・ソール(ホーギー・カーマイケル)

バーチ・カヌー(レリア・フレッチャー)

バイ・ザ・ストリーム(リチャード・グリンブラント)

アワ・バンド・ゴーズ・トゥ・タウン

ソナチネ第6番 へ短調(ベートーヴェン)

ピアノ・ソナタ ハ長調第1楽章(モーツァルト)

四手のためのピアノ・ソナタ ニ長調第1楽章(モーツァルト)

山の魔王の宮殿にて− 「ペールギュント」第1組曲より(グリーク)

前奏曲 変二長調(ショパン)

レイエンダ(アルベニス)

2台のピアノのためのロンド ハ長調(ショパン)

幻想小曲集第2番(シューマン)

ピアノ・ソナタ第8番ハ長調「悲愴」第1、第2楽章(ベートーヴェン)

バラード第2番 へ長調(ショパン)

メフィスト・ワルツ第1番(リスト)

ポップス・メドレー
(イマジン、上を向いて歩こう、戦場のメリークリスマスなど)

即興曲 変イ長調(シューベルト)

マイ・ファニー・バレンタイン(リチャード・ロジャース)

ピアノ・マン(ビリー・ジョエル)

チェンバロ協奏曲 ニ短調第1楽章(バッハ)

アンコール曲:カンタータ 第208番 楽しき狩こそわが悦び(狩のカンタータ)BWV 208 2台のピアノ編曲版(バッハ)

レオン・フライシャーの演奏

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文藝春秋六月号 中村勘三郎独占告白「病を得て初めてわかったこと」を読んで [歌舞伎]

発売されたばかりの『文藝春秋・六月号』の『最初の医師に引退をすすめられ 中村勘三郎 独占告白 「病を得て初めてわかったこと」 立ち止まって気が付いた、歌舞伎はまだまだ面白くなる!』と題された記事を読む。中村屋についての数々の著書があるノンフィクション作家・関容子の構成によるもので8頁にわたるインタビューをもとにしたものである。

まずは病気になるまでのハードスケジュールが綴られ、海外旅行先で倒れるまでが語られる。

次に「後進に道を……」と題された発病後に最初の医師に引退をすすめられた話。さらに病院を変えて、今の主治医に出会うまで。

「名医との出会い」ではテレビに出ていた専門医に勘が働いて出会い「身体を動かすことによって、エネルギーが溜まるんです。だから、どんどん動かしたほうがいいですよ」という言葉に励まされ、快復するまでが語られる。もっとも快復の足取りは遅く、11月の中村座で演じた「沼津」の平作を演じることが、いかに困難だったかを初めて知って驚く。そして勘三郎は、病気と前向きにつきあえたことを素直に喜んでいる。今後の希望として、中村座発祥の地といえる京都の北野天満宮に中村座を持っていきたいこと、しかも演目は『菅原伝授手習鑑』を考えているらしい。海老蔵が『暫』を演じ、歌舞伎以外の役者と歌舞伎が演じてみたいという過去の希望がかなったことにふれ、言葉の力と名前の威徳だと感じたことなどが語られる。

次に「読書が趣味に」では、病気をして本を読むようになったこと。そして資料を読むうちに発見した驚くべき事柄が述べられる。江戸末期に中村座を日本橋から江戸猿若町に移した際の天保13年5月5日の初日の二番目狂言が『法界坊』だったこと。移転の時に今戸橋東(今の平成中村座が建っている同じ場所!)の土を持って行って中村座が建てられたこと。

さらに日本舞踊の一番古い流派である「志賀山流」のことを知って、是非とも『志賀山三番叟』を出したくなったこと。蝋燭の明かりで古風にやりたいこと、小山三に口上の席に座らせ、日本舞踊で一番古い演目と今生きている一番古い役者はここにおりますという趣向が語られる。勿論それは今月実現した。

その小山三が持ってきたホコリだらけの行李の中から、六代目菊五郎が芸の工夫を覚書を記録させた「最重要参考品」という資料が出てきたこと。『め組の喧嘩』もその中にあって、早速にその工夫を取り入れること。

試演会での若い弟子の活躍にふれ、さらに5月18日〜20日の「三社祭」には、『め組』の幕切れで三社様の本物の神輿が入ってくること。三月の試演会では、孫の七緒八君を抱いて出て「初お目見得」をしたことなどが語られる。

「来春開場の歌舞伎座で」では、もし病気をしなかったら、『お祭り』とか『雪達磨』とか、力を抜いて楽に踊る踊りの面白さっていうのがわからなかった気がする。今は前ほどのパワーがないから力が入らないんだけれど、力を入れて踊ればいい、ってものでもないことがわかったんです。病気をマイナスからプラスに変えられた気がしますと語っていて感動的。

結びは以下の通り

当面の課題は、来年の春に開場する新しい歌舞伎座で『鏡獅子』や『娘道成寺』が踊れるようになるか、ってことですね。『お祭り』や『雪達磨』が踊れるようになって、その上に『鏡獅子』や『娘道成寺』が踊れたらこれ最高だよね。そうなれるように、ますます頑張りたいと思います。

仁左衛門、團十郎と大病を克服した役者もいれば、猿翁を襲名する猿之助のようになかなか舞台に立てない役者もいる。これまで、猪突猛進で火の玉のような役者だった勘三郎が上記のような心境になったことに、大いに心を揺すぶられた。今の勘三郎が目指す境地は、先代の勘三郎が到達したもので、ようやく勘三郎にも進むべき道が見えてきたのだと思う。

ここで思い出したのは、このところずっと聞いている96歳のチェリスト青木十良さんの著書での言葉である。演奏を歌舞伎に置き換えてもいいのかもしれない。

「心を磨きなさい。技術だけを磨くと悲劇が起こるよ。心の中が丸見えになるよ、あんたの心はこんな状態でいいの」って、よく生徒に言うんです。演奏会に行って、これでもか、これでもか、まだうまいと言わないのかっていうような演奏を聴かされると、もうガッカリして途中で逃げ出したくなりますね。演奏は何よりも人間性だと思うんですけれどね。

ここでは主に舞踊のことしか書かれていないが、二月の新橋演舞場で吉右衛門と久しぶりに共演した『鈴ヶ森』の白井権八の素晴らしさを思えば、力を入れて演じればよいという芝居ばかりでなく、すっと力を抜いた柔らかな芝居でも、観客を十分に魅了することができるということを忘れないで欲しいと思った。

とかく笑いの方向へ観客を導いてしまい、受けを狙う役者としての助平根性のなかなか抜けない勘三郎なのだが、舞踊と同じように派手さや大向受けするような芝居ではないもので大きな成果を上げて欲しい。その上で、さらに歌舞伎の大役に挑んで欲しい。仁左衛門、團十郎、幸四郎、吉右衛門、菊五郎といった一世代上の面々との共演をもっと重ねるべきである。もういくらも時間は残されていないのだから。


文藝春秋 2012年 06月号 [雑誌]

文藝春秋 2012年 06月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2012/05/10
  • メディア: 雑誌



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毛抜 上演口上・志賀山三番叟 髪結新三 平成中村座五月大歌舞伎・夜の部 [歌舞伎]

すべての人に拍手を

『毛抜』の舞台面は、いつもとは違い破風屋根が正面にあって、その下に通常の舞台があるという歌舞伎十八番のふさわしい古風なものだった。江戸時代中期の芝居小屋の雰囲気を再現するというのが、企画者の意図だったろうと思う。次の『志賀山三番叟』にいたっては、燭台を立ててのロウソクの光だけで踊るという、さらに意欲的なものになっていた。

肝心の芝居なのだが、古風なお膳立がされている割には演技自体は、現代人の演じる歌舞伎そのままで、面白くないことはないのだが、何らかの化学反応を期待したのに何もなくて無風状態といったところだろうか。橋之助、扇雀、亀蔵、男女蔵、国生、新悟といったいつもの顔ぶれに、いつの間にか錦之助、彦三郎、萬次郎が加わっていたという感じなのだが、意外に地味で顔合わせの妙といったものは感じられなかった。とにかく皆慎ましやかに演じているので行儀のよさばかり目立ってしまった。この芝居だけは、中村座に縁のある役者が誰も出ていないので、使命感と言ったようなものが希薄だったのは確かのようである。

橋之助も歌舞伎十八番への挑戦なのだが、粂寺弾正といった魅力的な人物を十分に描ききれていないように思った。一世代上の役者が演じる円熟味のある演技とは、まだまだ大きな隔たりがあるように感じたし、一世代下の役者の若さゆえのひたむきさで何とか見せてしまうという未熟さ故の魅力というものもなかった。来月はコクーン歌舞伎で新作が上演されるが、橋之助は国立劇場で『俊寛』を演じる。歌舞伎役者としては難しい時期に来ているのは間違いがないが、新しい歌舞伎座では中心となる世代だけに、より以上の精進を願いたい。

『上演口上』として勘三郎と最古参の弟子である小山三が並んでの挨拶である。数え年で93歳になるという現役の舞台俳優としては世界最高年齢である小山三に対する勘三郎の愛情が溢れたもので泣けた。七ヶ月に及ぶロングラン公演の御礼など、これも観客への感謝を述べて勘三郎の心の温かさが感じられて泣けた。小山三はこうした場に並ぶには慣れていなくてという通り緊張の極みだったが、三世代にわたる中村屋への献身への決意を語って深く感動させられて、またまた泣けた。涙でボロボロになったが、次の幕が真っ暗な中で始まったので助かったけれど、七月のロングラン公演で一番感動したのは、最初の勘三郎の東京スカイツリーを背にしての『お祭り』とこの『上演口上』ということになったようだ。

今まで一番感動した歌舞伎のひとつは、先代の勘三郎が病気休演して代役に立った当時の勘九郎による『俊寛』だった。その時から始まった歌舞伎役者の苦闘の日々を支え続けた古いお弟子さんの名前と顔が次々に浮んできて、この光景を見せて上げられたらと思うと、またまた泣けてきた。

『志賀山三番叟』は、いわゆる「舌出し三番叟」なのだが、今回は舞台前にロウソクのようにゆらめく電球が仕込まれた和紙の照明器具が取り付けられ、上手と下手には燭台が置かれていた。もちろんロウソクの光だけでの上演は無理なので、照明は入っているのだが極力明るさを抑えた中で踊られるという驚きの舞台が出現した。たぶん大劇場では暗すぎて観客から苦情が来るだろうが、平成中村座の規模でなんとか上演できるかという実験的な試みである。

おかげで均一に当てられる歌舞伎の照明とは違って陰影が増し、厳かな雰囲気があって、幕が閉まるまで拍手をすることができないような空気が流れていて大成功の舞台だったように思う。それは勘九郎の好演によるところが大きいのだが、「難しい振付」、「鈴は最初は鳴らさないようにするのが難しい」など、上演前の口上で演目の紹介にことよせて勘三郎からプレッシャーをかけられていたと思うのだが、見事に踊りきって観客を魅了したのは何よりだった。

『髪結新三』には、菊五郎の新三で魚屋を演じる菊十郎が出演しているのが目を惹いた。中村屋では、助五郎の持ち役で、勘三郎の新三に菊十郎が出ることなど考えられなかったことだけに大いに期待した。もう出てくれるだけで名人級の人なのだが、さすがに共演は遅すぎたようで年齢による衰えは隠せなくて、天秤棒を担がせるのも気の毒なようで、観客にそう思われるようでは役者にとっても本意ではないだろうと思えるだけに気の毒だった。

「カツオ、カツオ」の声は正真正銘の本物だが、カツオをさばく手並みは劇場が小さいだけに小さな疵が目立ってしまって残念な結果に。最も驚いたのは、勝奴に「しょうが」をと言われて「葉しょうが」を手渡したこと。カツオに「葉しょうが」は初めて見たような気がする。普通は「根しょうが」ではなかっただろうか。

苦闘の歴史といえば『髪結新三』の勘九郎の国立劇場小劇場での初演を観ている。先代の勘三郎が亡くなる二日前の舞台で、物真似大会かと思うくらい声の調子から身のこなしまで何から何まで完全コピーというか、勘三郎が乗り移ったような舞台だった。一番の思い出といえば、最前列で見ていたので忠七を踏まえた時の名台詞のときに、勘九郎の褌の前袋が目の前にあって、足を上げた分だけ褌と足の間に隙間がどうしてもできるので、見てはいけはないものが見えてしまったこと。色々と口伝はあるのだろうが、さすがに勘三郎からは伝えられていなかったようである。

その物真似、声色の時代から襲名などを経て、念願の平成中村座での上演ということだろうか。先代の影響は残るものの、完全に勘三郎のものになっていて文句のつけようがない。菊五郎や三津五郎も演じるが、まったく及ばない高みにある。これはこれで完成品なので、これ以上いじらないでもらいたいと思ったほどである。勘三郎の新三の出は花道からだったが、舞台の大きさに制約のある芝居小屋にはあっていたと思う。

今回の周囲の配役も恵まれていて忠七に梅玉が出ていたのが大きい。白子屋の番頭でありながら、肝心の商品を揃えるような手腕もなく、掛取りも上手くいかず、ビジネス的なセンスはゼロに等しいということを感じさせたのはお手柄である。さすがに梅幸の忠七には感じない感覚で面白かった。たぶん商人にもかかわらず商才を欠くということは、性善説の人で他人を疑わないという善意の人なので新三に簡単に騙されてしまうのも納得した。結局、恋愛だけに興味があるという白子屋には困った存在なのである。

もうひとつ発見だったのは勘九郎の勝奴である。「鈍」な梅玉と対照的に「鋭」の人なのである。常に目配りを忘れず、先を読み、あわよくば新三を蹴落とすくらいの野心も感じさせて面白い存在だった。しかも隠れて恋愛にも熱心のようだし、新三亡きあとも、器用に世間を渡っていくだろうと感じさせ、次の新三は自分という気構えともだぶって楽しませてくれた。

弥太五郎源七の彌十郎も面白い存在で、これも忠七同様にビジネス感覚に欠けて時代の変化についていけず、自らの会社を倒産させてしまうような中小企業のオーナー社長といった趣があって面白くみた。親分にはふさわしくない弱気な言葉など、これまでの貫禄十分な役者には違和感のあった台詞も納得できるものだった。

大家の橋之助は老けメイクで勘三郎の言うとおりに芝翫にそっくりに。楽しんで演じているのが何よりで、あまりに金に執着しているので、実際に現代のお金に換算するといくらになるかなど頭の中で換算してみた。1両が6万として、もらった30両は180万。それを半分もらっていくということは90万。さらに家賃の滞りで2両で12万。カツオは4万5千円相当なので2万2千500円。104万余りを一挙に手に入れようとえうるのだから確かに強欲な訳である。橘太郎の大家の女房もなかなかの婆さんぶりで、かつて坂東うさぎとして子役から立ち回りの名手として活躍していた人が、こうなるのかと感慨深いものがあった。

回り舞台のない劇場でも、移動するワゴンの上に装置を組めば人力でも簡単に動かすことができて、周り舞台同様の効果が上がることを今回も証明した。装置を組み上げるバックスペースさえ十分にあれば、どこでも歌舞伎は上演できそうである。舞台面がかさ上げされてしまうのと、建てられた柱が安定しないなどの不都合に目をつぶれば芝居の上でも不都合はない。裏方の努力と工夫に敬意を表したい。

化粧室への誘導、開場閉場時の仕切り、幕間のゴミの回収、送迎バスの配慮、などなど公演を成功に導いた多くの人々にも拍手を。そして自然の移ろいを感じさせる都会の劇場では味わえない雰囲気を持った劇場にも感謝を。願わくば、さらに多くの人々に楽しんでもらえるようの廉価な席があればよかった。開幕後にイープラスなどで割引チケットを売るくらいなら、最初から6000円台の席があれば平成中村座を諦めた人も少なかったと思う、お大尽席はお遊びだけれど、もういいんじゃないだろうか。

七ヶ月ロングランの公演全ての筋書を買うともらえる筋書収納ボックスを手に入れる。会場にある用紙に三角の応募券を一枚一枚貼って、筋書売り場で交換という手間暇のかかるものだったが、少なからず交換している人がいて驚いた。紙製のものを組み立てる簡便なものだが、背表紙を月ごとに並べると隅田川の流れが地図として現れるという凝ったもので勘三郎のサイン入り。記念品としては悪くないと思った。

夜の部

一、歌舞伎十八番の内 
  毛抜

4:30-5:28
               
粂寺弾正  中村 橋之助
腰元巻絹  中村 扇 雀
秦民部  中村 錦之助
小原万兵衛実は石原瀬平  市川 男女蔵
小野春風  中村 国 生
錦の前  坂東 新 悟
八剣玄蕃  片岡 亀 蔵
秦秀太郎  市村 萬次郎
小野春道  坂東 彦三郎

幕間   20分

二、志賀山三番叟 上演口上

中村 勘三郎
中村 小山三

江戸随一 志賀山三番叟

5:48-6:18

三番叟  中村 勘九郎
千歳  中村 鶴 松

幕間   15分


三、梅雨小袖昔八丈
  髪結新三

6:33-8:45

髪結新三  中村 勘三郎
家主長兵衛  中村 橋之助
下剃勝奴  中村 勘九郎
車力善八  片岡 亀 蔵
娘お熊  坂東 新 悟
加賀屋藤兵衛  市川 男女蔵
後家お常  市村 萬次郎
弥太五郎源七  坂東 彌十郎
手代忠七  中村 梅 玉

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十種香 弥生の花浅草祭 め組の喧嘩 平成中村座五月大歌舞伎・昼の部 [歌舞伎]

熱狂とは別の…

二月の新橋演舞場での勘九郎襲名をはさんで、七ヶ月に渡った隅田公園内の平成中村座のロングラン公演も今月で最後となる。初日に駆けつけ東京スカイツリーをバックに『お祭り』を踊る勘三郎の姿に涙を流したのが、つい昨日の事のように思える。座頭といえども、体調を慮っての慎重な出演が続き、勘三郎にとっても不本意だったと思うが、今月はふたつの芝居に中幕に舞踊が出るという、ようやく「大歌舞伎」らしい演目が並んだ。上演時間も4時間半と歌舞伎らしい長さとなった。もっとも仮設劇場のため、窮屈な座席での長時間の観劇や幕間の化粧室の行列は辛いのだが、そうした不満を吹き飛ばすような会心の好舞台が続いて今月の昼の部は大当りである。

今回は本体の菊五郎劇団が大阪松竹座で團菊祭の興行を行なっているにもかかわらず、彦三郎、萬次郎らの大名題のほか、橘太郎、それに夜の部の『髪結新三』には鰹売りに菊五郎との共演が決まり?の菊十郎が出演するなど、相互乗り入れ的な適材適所の配役の妙があって、大いに楽しむことができた。

もっとも『め組の喧嘩』では、打ち出しの太鼓が打たれているにもかかわらず、カーテンコールを求める一部の観客の拍手が続いてカーテンコールが行われた。『法界坊』ならともかく、あの『め組の喧嘩』の幕切れにカーテンコールを求める観客の心理が理解できない。観客サービスとしては、異例ともいえる手拭い撒きまであったのに、あれ以上何を舞台に求めているのだろうか。カーテンコールの拍手を無視して、さっさと帰る粋な観客も多かったのは救いだったけれど。

歌舞伎に限らず、オペラ、バレエ、ミュージカルなども最近はカーテンコールどころか、スタンディングオベーションが当たり前になってきた。本当に「感動」したならば、それもいいだろうが、何故この舞台にこれほどまでに熱狂しているのか首をかしげたくなるようなものもある。高いチケットを購入した自分、話題の公演をチョイスした自分に向かってのご褒美だと思っているようなカーテンコールを求めるような輩は、「さもしい」根性の観客だと言いたい。それに迎合してしまう役者も人気商売だから仕方がないが、仁左衛門が一世一代の『女殺油地獄』の千秋楽で断固カーテンコールを拒否したのは実に清々しいエピソードである。

『十種香』の八重垣姫に七之助、濡衣に勘九郎、勝頼に扇雀、謙信に彌十郎、白須賀六郎には橘太郎が抜擢され、原小文治には亀蔵と若手花形の中村屋兄弟を中堅が支えるという好配役。今回の平成中村座で最も成長著しかったのは七之助だが、新橋演舞場の『椿説弓張月』との掛け持ちで今月は大役の八重垣姫ひと役である。

まず素晴らしいと思ったのは歌舞伎座の半分ほどしかない間口の小さな舞台に収まったシンメトリーの舞台面。多少コンパクトになってはいるのだが、大劇場のように少ない出演者ゆえに劇空間が埋められないこともないのが良い。それぞれの出演者が演じる場面では観客の視線が自然と集まってクローズアップの効果が上がるのも平成中村座ならではの現象である。

しかも義太夫入りの時代物であっても、演者の心理が手に取るように解る距離感も好ましい。七之助の好演によって恋に身を焦がす八重垣姫の恋心がストンと心の内に落ちてきた。勘九郎の濡衣は恋よりも自身の任務を最優先させる女を過不足なく描いて、現代人にとっても共感を得ることができる人物を演じていたように思う。恋の対象となる勝頼の扇雀は、若い出演者に囲まれると、若さや美貌で観客の興味を惹くでもなく、芸の力で観客を別世界に連れ去るような魅力に溢れているわけでもないので、いささか中途半端な立ち位置になってしまうのが気の毒だが、物語の要としての存在感はあった。橘太郎の白須賀六郎は抜擢に応えて身体も良く動き、気迫も十分で舞台に流れる時間を一変させる力があった。原小文治の亀蔵には陰の雰囲気があって面白く観た。彌十郎の謙信もすべてを見通している大きさが自然にあふれているのがよく充実した舞台を引き締めていた。

今年は三社祭が七百年なのだとか。それを記念して、かつて現・勘三郎と富十郎が踊って劇場を興奮のるつぼにした『弥生の花浅草祭』が上演された。劇場の近所にはすでに祭の準備がされているようで、まさにご当地の演目。善玉と悪玉が踊った後には、墨田川越しに三囲社の鳥居の一部が土手の上に見える遠見に変わるが、向こう岸の三囲社にでかけて確認すると、現在の鳥居の真ん中にはなんと平成中村座が見えるのである。劇場は山谷堀の上に建っているが、この場所で踊るにふさわしい演目が、最も踊るにふさわしい舞踊巧者の染五郎と勘九郎によって踊られたのは大きな喜びとなった。

なんといっても面白いのは「三社祭」で、躍動感、腰を落とした時の安定感、二人の丁々発止の踊り比べといった趣が何とも心地よいのである。さすがに「通人と野暮大尽」は技術だけではどうにもならない部分が多いので手も足も出ないといった感じで今後に期待したいというところだろうか。

浅葱幕が落ちて「石橋」に舞台転換するはずが落ちないトラブルが発生。とっさに定式幕が閉められ、大薩摩も幕前で披露することになった。スタッフの機転によって滞りなく舞台は進行したが、善玉を乗せた船が上手に引っ込まない小さなミスもあって、まだまだ安定感に欠けていた舞台になっていたが、観客と裏方が一体になって舞台を応援しようという気運のようなものがあって、最後は大いに盛り上がったのは江戸時代のスケールを再現した平成中村座ならではで大いに満足した。舞台に近い席だったこともあり、染五郎の足の裏がよく見え、激しい稽古をしのばせる固い皮膚になっていたことに感動した。

菊五郎劇団の専売特許だとばかり思っていた『め組の喧嘩』を勘三郎が初役で演じた。菊五郎も江戸ッ子らしい辰五郎で面白いのだが、粋な演じ方で熱っぽさはあまり感じられない。とってもクールなのである。勘三郎の辰五郎は、同じ江戸ッ子でも少々野暮ったさもあるし、喧嘩をしかける心の内に燃え盛る炎を隠そうともしないのが個性的である。今後は菊五郎劇団では三津五郎の持ち役になるであろう辰五郎に挑戦する勘三郎の心意気に大きく心を動かされた。

勘三郎が小柄なこともあって力士との対比が効果的であるし、卑怯とも思える力士を闇討ちにするような闇の部分を持った弱さを秘めているのが似合うのも勘三郎の個性である。弟子の小山三の家で発見された六代目の演技メモから、梅玉に意見される「焚出し喜三郎の内」の場が追加されたが、話の展開の原因が納得はできるものの、別に無理して出さなくても問題のないような内容の場面だった。女房お仲の扇雀が立ち聞きしているという趣向も少々苦しいように思えた。

愛する妻子とそれとなく水盃を交わして別れを告げるのが良い場面だが、勘三郎だとあまり粋に見えない。刺子を羽織る部分もきれいに決まらないので野暮ったく見える。さらに目元から頬を経て口元に至る顔のつくりが先代の勘三郎に生き写しで、何度も先代が演じているような錯覚におそわれた。先代自身は一度しか演じていなくて、中村屋の芝居には、あまり向いていないと自覚していたのかもしれない。

喧嘩となって若手が活躍するが、一番目立っていたのは萬太郎だった。ここでも菊五郎との舞台が多かった菊十郎が出ていたのが嬉しい。とにかく劇場が小さいので迫力満点の喧嘩が続く、おなじみの場面もあり、客席に降りての喧嘩もあり、回り舞台の機構のない劇場でも十分な効果を上げるように工夫が凝らされていた。短時間の舞台転換も熟練したスタッフの努力の賜物と感じた。最前列の席だったこともあり、何度も身をかわしたくなるような瞬間が何度もあって大いに楽しんだ。

結局、梅玉の焚出し喜三郎が仲裁に入って大団円を迎えるのだが、普段は気にならない実は何も解決されていない事も目立ってしまった。さらに大劇場では気にならないような喧嘩の立ち回りの嘘臭さも、江戸時代のサイズの劇場ならではの臨場感の前では当然なのかもしれない。とにもかくにも勘三郎が、劇場へ出演し続けることで、ここまで回復したことを大いに喜びたいとともに、7ヶ月も無休で走り続けたことを賞賛したい。くれぐれも無理だけはしないで欲しいと思う。通い続けた劇場が、もうすぐ跡形もなく無くなることに少々感傷的になって劇場の周囲を巡ってみた。カーテンコールの熱狂とは別物となる芝居の余韻を噛みしめることができたのが嬉しかった。


昼の部

一、本朝廿四孝)
  十種香

11:00-11:57

八重垣姫  中村 七之助
腰元濡衣  中村 勘九郎
原小文治  片岡 亀 蔵
白須賀六郎  坂東 橘太郎
長尾謙信  坂東 彌十郎
武田勝頼  中村 扇 雀

幕間   20分

  三社祭七百年記念
二、四変化 弥生の花浅草祭
  神功皇后・武内宿禰
  三社祭
  通人・野暮大尽
  石橋

12:17-1:02


武内宿禰/悪玉/国侍/獅子の精  市川 染五郎
神功皇后/善玉/通人/獅子の精  中村 勘九郎

幕間   25分

三、神明恵和合取組
  め組の喧嘩

1:27-3:35

め組辰五郎  中村 勘三郎
辰五郎女房お仲  中村 扇 雀
四ツ車大八  中村 橋之助
露月町亀右衛門  中村 錦之助
柴井町藤松  中村 勘九郎
おもちゃの文次  中村 萬太郎
島崎抱おさき  坂東 新 悟
ととまじりの栄次  中村 虎之介
喜三郎女房おいの  中村 歌女之丞
宇田川町長次郎  市川 男女蔵
九竜山浪右衛門  片岡 亀 蔵
尾花屋女房おくら  市村 萬次郎
江戸座喜太郎  坂東 彦三郎
焚出し喜三郎  中村 梅 玉
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五月花形歌舞伎 初日のあれこれ [歌舞伎]

5月1日付の産経新聞に工事中の歌舞伎座についての記事があり、松竹の武中雅人取締役のインタビューが掲載されていた。それを要約すると

1.歌舞伎座とオフィス棟が別に見えること、また劇場とオフィスへの動線分離も強く求めた。背景となるオフィス棟は日没後、ブラインドを下ろせば真っ暗にできる。照明デザイナー石井幹子さんのライトで劇場に月明かりが注ぐようにライトアップし、夜のパリ・オペラ座のようにしたい。

2.地下鉄から劇場内部までを直結させず、一旦外に出て回廊を伝わって劇場へ入る形にしたのは、別世界に入るワクワク感や、特別感を残したかったからだ。

3.バリアフリー化を進め、客席の個別字幕で多言語対応を考えている。

1.に関しては、周辺のビルの明かりやネオンがオフィス棟に反射して真っ暗にするのは無理のような気がする。

2.に関しては、確かに芝居の始まる前にはワクワク感があっていいのだが、帰りが不便なのは日生劇場や新国立劇場で実証済みなんだけれど…。

3.たぶんメトロポリタン歌劇場や国立能楽堂のような感じになるのかも。イヤホンガイドとの棲み分けはどうするのか?無料?有料?

立役の大幹部が誰も出演していないので「大歌舞伎」ではなく「花形歌舞伎」と題されている新橋演舞場の初日にでかけた。来月の猿翁、猿之助、中車、團子襲名では、昼の部が全日程売り切れの大盛況で、それに比べるといささか寂しい入りなのだが、歌舞伎の上演の主会場が新橋演舞場になってから、あまり見かけなかった外国人客の姿が多く感じられた。歌舞伎に馴染みのない観客も足を運びやすい今月はおすすめの演目が並んだように思う。

以下各演目について簡単に。

『西郷と豚姫』は翫雀のお玉が好演。太り気味の体躯といい、心映えの美しさといい、翫雀はお玉そのもので、なかなか泣かせる芝居となった。特に西郷に語って聞かせる奉公先へ訪ねてきた父親の行く末の哀れさは切ない。西郷に寄せる想いの結末も悲しいけれど温かいのは翫雀ならではと思った。旅立つ西郷に羽織を着せかけるとき、間違って裏表反対に着せかけてしまって笑いを誘っていたが、お玉の心の動揺や、しんみりした芝居を明るい方向へ導くきっかけとなるので悪くはなかった。翫雀の型としても良いくらいだと思った。

その他、花形歌舞伎らしく若い人に良い役が与えられているが、芸妓 岸野を演じた松也が目を見張るような出来で抜擢に応えていたし、このところ何を演じても合格点を与えられない児太郎が珍しく舞妓 雛勇を演じてなかなか見所のある演技をみせた。こうした発見があるのも花形歌舞伎ならではである。

獅童の西郷は、これまでの吉右衛門や團十郎といった面々に比べると線は細いし、存在感は希薄なのだが翫雀の好演にひっぱられてか大きな破綻もなく無事に演じ終えたという感じだった。一番問題なのは、どうしてこの西郷にお玉が惚れてしまったのか、その人間的な魅力を最後まで発見できなかったことだろうか。

『紅葉狩』は福助の更科姫実は鬼女と獅童の平維茂の顔合わせ。どちらも初役ではないので安心して観ていられるのが何よりだが、若葉青葉の季節に「紅葉狩」とは季節外れの感は否めない。ここでも若手花形が様々な役を演じている。児太郎の侍女野菊、右源太の種之助、左源太の隼人など20歳前後の役者も登場して将来がますます楽しみに。

福助は、このところ新橋演舞場に連続出演で、演舞場には出演拒否を貫いている玉三郎に替わって立女形格の大活躍である。勘三郎らと悪ふざけのような浮ついた芝居をしていた頃と違って、顔つきにも変化が出てきたのは何より。美貌を誇る方向ではなしに、父親である芝翫のような女形を目指しているかのようである。

何よりも長年のキャリアで培った技術の裏付けがあるだけに、安定感があるのが心強い。扇の扱いなど小さな失敗もあるにはあったが、それを遙かに補う素晴らしい鬼女で、近頃あれだけ美しく毛を振る役者を観たことがないように思う。新しい歌舞伎座で最初に襲名するのは福助なのかもしれない。それが順番通り芝翫なのか、あるいは歌右衛門になってしまうのかはわからないが、襲名の話が出ても可笑しくないほど充実していたと思う。

『女殺油地獄』でも、福助のお吉が突出していたように思う。仁左衛門の与兵衛には孝太郎がいるので演じる機会に恵まれなかったようだが、慎ましやかでありながら色気も失わないお吉を演じさせたら福助が一番なのではないだろうか。今月は愛之助の他に、染五郎や獅童など与兵衛役の候補が何人も同座しているので、いろいろな組み合わせで観てみたいと思わせるほどの好演だった。

愛之助は小型・仁左衛門という感じで甘さと狂気の振幅が大きくて魅力的な与兵衛を描いてみせた。もっとも良かったのは第1幕と第3幕で、家庭内暴力?をみせて勘当される第2幕は、案外に芝居が弾まないで低調。面白くなる要素が満載の場面だと思っていたのに意外な出来だった。米吉のおかち、歌六の徳兵衛、秀太郎の母おさわと役者は揃っているのに、今ひとつ切迫感といったものが伝わってこないで平凡に終わった。

夜の部は国立劇場で初演された『椿説弓張月』が白鸚の孫である染五郎に為朝が継承されての10年ぶりの上演となった。三島由紀夫の歌舞伎としては最後の作品で、この初演の1年後に割腹自殺をしている。たぶん初演時にはあまり問題にされなかったかもしれないが、切腹の場面が多いし、介錯で切り落とされた首が登場するなど、三島由紀夫の趣味?が横溢した作品だったのかもしれない。

赤姫の爪弾く琴の音に合わせて、有名な下帯一枚の姿で木槌で責められる場面は、三島好みの聖セバスティアンの殉教の翻案のようでもあり、きっと裸武者は三島自身が演じたかったのだろうと思ったりもした。今回の裸武者は薪車で、鍛えられた肉体美とまではいかないで腹筋の割れは描かれたものだったけれど、いささか刺激的な場面を、あっさりと描いていたので三島は満足しないかも。もっと恍惚の表情をしてくれないと面白くならないのだけれど、あんなに真面目に演じられても困ってしまう。責められながらも下半身は興奮しているのではとでも感じさせてくれないと歌舞伎にならない。

時代物の擬古典調の歌舞伎を描こうとして、作者の初々しさが目立った上の巻、趣向に走った加虐の場面や船や大波に襲われるスペクタクルなど見所満載の中の巻、琉球を舞台にした世話場から大団円を迎える下の巻と比べると圧倒的に面白かったのは下の巻の「北谷夫婦宿の場」である。なんといっても功労者は出演者の中で唯一子役として初演の舞台に出ていた翫雀で、祖父の演じた阿公を自在に演じて昼の部の豚姫とともに今月の大当たりである。

いささか豊満な肉体に比べ、貧相な乳房はご愛敬だったけれど、一つ家の鬼女よろしく乳房を出しての熱演で面白さが倍増した。ここには黒い着付けで染五郎の為朝も登場して典型的な歌舞伎の二枚目として演じていた。初演の白鸚、父親である当代の幸四郎らに比べれば、貴公子然とした姿の良さは、四人の為朝で一番だったろうと思う。それまでの場面が英雄豪傑としての為朝だったので、いささか線が細すぎるかもと感じていたが、この場面のおかげで染五郎が俄然が輝きを増すこととなった。幕切れは花道を白馬とともに天空をいく心で引っ込むのだが、確かに天空を駆ける人馬として見えたのはお手柄だった。

上演時間が4時間45分と最近では異例の長さで、芝居としては三島由紀夫らしさを失っていないものの、その後の三島由紀夫の死、沖縄が返還されていない頃に初演された芝居であること、そして本土と沖縄の格差が是正されないばかりか、基地問題などで揺れる現代の姿を思うと複雑な思いに捕らわれた。

染五郎は平成中村座との掛け持ち出演になるが、その重責に見事に応えた好演。これまで玉三郎、雀右衛門によって演じられてきた白縫姫を継承した同じく掛け持ち組の七之助も将来のさらなる活躍を予感させる水際だった若女形ぶりで堪能させる。ここでも亀を演じた松也が光っていたし、まだ少年でありながら父親譲りの科白の上手さを聴かせた鷹之資が楽しみな存在になってきた。確かに新しい歌舞伎座は彼等のものである。
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ドン・ジョヴァンニ 千秋楽 新国立劇場 [オペラ]

連休に入ったからなのか、前回の「オテロ」平日昼公演とは違ってほぼ満席の大盛況。舞台成果も再演ながら最近の新国立劇場の演目のなかでは最良のものだったのではないだろうか。知人のお隣に座っていたアメリカ人夫妻は、METで歌ったマリウシュ・クヴィエチェンを聴いて気に入って東京まで追っかけてきたのだとか。クヴィエチェンは十分にその価値のある歌手で、歌唱はもちろん、演技力もあり、なかなかの容姿で見た目にも美しく理想的なのドン・ジョヴァンニだった。

今回は30代の若手から中堅の実力歌手が揃った感じなのだが、ドンナ・アンナのアガ・ミコライ、ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルも充実した歌唱と演技で実りの多い舞台を彩っていた。ただ一人、ドン・オッターヴィオのダニール・シュトーダは健闘していたものの、他の歌手に比べて声が前に飛んでこないでアンサンブルになると埋没してしまて気の毒だった。

海外からの歌手に比べても遜色なかったのが、レポレッロの平野和、ツェルリーナの九嶋香奈枝、マゼットの久保和範、騎士長の妻屋秀和らである。知名度はそれほど高くない歌手もいるのだが堂々とした歌唱と演技で、舞台の水準を大きく引き上げることに貢献していたと思う。ドン・オッターヴィオ以外は文句のつけようのない舞台だった。

さらに舞台を充実させていたのは、エンリケ・マッツォーラの指揮する東京フィルハーモニー交響楽団である。序曲が演奏されると、舞台からは見えないドン・ジョヴァンニ とドンナ・アンナの間で何が起こったかを雄弁に語る音楽が流れてきた。劇中では登場人物の心の動きが手に取るようにわかるほか、疾走する音楽があり、艷やかな音楽もあるなど、変幻自在でモーツァルトの音楽の幅広さを改めて教えてもらったように思う。

演出は台本作家のダ・ポンテと親交のあったと思われるカサノヴァとの関連から、舞台をセビリアからカサノヴァの生まれ育った街であるヴェネツィアに移したということだが、第一幕でゴンドラがでてきたり、運河を連想させるアーチが出てきたり、舞台後方の背景にヴェネツィアの風景が映し出されるほかは、それほど意味がなかったかもしれない。もっとも床は鏡のように反射する素材が敷き詰められていたため、前回の『オテロ』のように無意味な本水を使わないだけ、ずっと洗練されていたと思う。衣装もなかなか趣味のよい配色と観客の多くがイメージする衣裳デザインでシンプルながらセンスのよさが光っていた。

舞台装置は室内劇という枠組みを意識したのか上手と下手が一面の壁で、いくつかあるドアから人が登場したり、上手には階段、下手にはバルコニー、さらに2階に回廊のあるアーチ上の橋?舞台転換の際に舞台奥を隠す役目のある上下する一面の壁など大仕掛はないが、余計なものもないという潔さだった。第二幕は横に移動する襖絵のようなパネルで囲まれた空間設計で面白く観た。

再演物でも十分満足できる水準に達していたのは何よりだったが、よくぞ題名役にマリウシュ・クヴィエチェンを連れてきたものだと感心するばかりである。震災後に続いて出演キャンセルもようやく落ち着きを見せてきたようである。もっとも終演2時間後に、かなり強い地震があり、上演中ではなかったが海外からの歌手はどのように感じただろうか。それが少し心配ではある。

スタッフ
【指揮】エンリケ・マッツォーラ
【演出】グリシャ・アサガロフ
【美術・衣裳】ルイジ・ペーレゴ
【照明】マーティン・ゲップハルト

キャスト
【ドン・ジョヴァンニ】マリウシュ・クヴィエチェン
【騎士長】妻屋秀和
【レポレッロ】平野和
【ドンナ・アンナ】アガ・ミコライ
【ドン・オッターヴィオ】ダニール・シュトーダ
【ドンナ・エルヴィーラ】ニコル・キャベル
【マゼット】久保和範
【ツェルリーナ】九嶋香奈枝

【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団



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Elegance自尊を弦の響きにのせて〜96歳のチェリスト 青木十良〜 [映画]



昨日は墨田公園の平成中村座で『法界坊』の千秋楽を観て、東京ドームで北海道日本ハムVS千葉ロッテマリーンズ戦を観戦してから東京へ泊まることとなった。なぜなら今日はもちろん仕事なのだがスケジュールが調整できたので、渋谷にある「オーディトリウム渋谷」というミニシアターで4月21日から27日までの連日11時からの1回のみ上映される記録映画『自尊を弦の響きにのせて〜96歳のチェリスト 青木十良〜』をどうしても観たかったからである。

天使がチェロのレッスンを受けるようになってから15年ほどになる。基礎の練習はパスして、弾きたい曲だけを練習するという困った大人の生徒であると自認している。それほど熱心に練習しているわけではないが、チェロの音、響きが大好きなので飽きもせずにレッスンを続けている。そんな天使が一番気になっていたチェリストが青木十良さんだった。90歳を超えてなお現役のチェリストというのが凄い。生の演奏は聴く機会に恵まれなかったが、雑誌『音楽の友』の記事に出ていた畑中先生もご出演された「グレート・マスターズ」という演奏会で演奏されたことを覚えていたからである。

小雨の降る渋谷。昨日オープンした「渋谷ヒカリエ」とはちょうど反対側にある東急百貨店の本店の近くの交差点を曲がり、ラブホテル街を横目で見ながら坂道を少し上がると「オーディトリウム渋谷」が入ったビルにたどり着く。少し大きな試写室、あるいは視聴覚教室といった趣のあるミニシアターで、上映15分前に着いたというのに、劇場は超満員で通路という通路には補助席が出ていた。クラシック音楽好きならともかく、一般には決して知名度が高いとはいえないチェリストの記録映画で地味な内容なのだが、多くの人に支持されているようなのは嬉しかった。

超満員だったのは今日に限ったことではなく公開以来毎日の大混雑だったようである。今日は人身事故の影響で山手線のダイヤが大幅に乱れ、公開最終日であることもあり、少しでも多くの方に見ていただけるようにと、上映時間が5分遅れることとなったが、多くの観客はそうしたスタッフの配慮に共感していたようである。スクリーンサイズは4:3のスタンダードサイズで、フィルム上映ではなくビデオ作品の上映だったようである。フィルムに比べると多少解像度が劣るようなに思えた。もっとも気になったのは最初の方だけで映画の世界にどっぷりと浸かっていたので満足した。上映前には青木十良さんと大原哲夫氏の対談集『チェリスト、青木十良』とバッハの無伴奏チョロ組曲第五番と鳥の歌の入ったCDを買い求めた。何故なら青木十良さんの写真が貰えるから。とっても素敵な写真で大事にしたいと思う。上映終了後には著者のサイン会もあったのだが、仕事に遅刻しそうなので渋谷駅まで走ることとなり涙をのんで諦めた。

自分が何を求めているんだろうと、
それが「エレガンス」なんだと、
最近になってやっと発見しました。
「エレガンス」ということばの根底にあるのは、「自尊」です。
そう、日本語の「気品」「品格」にも通じるものだと思います。
自分を信じ、他の人を尊ぶ。
それが全身にみなぎって表現できたときには、
100パーセントよい音楽をやったと思いますね。

映画の内容はこの言葉に集約されていたように思う。映画は昨年発売された第4番のCDの録音にたどり着くまでの6年間を追っている。ヨーロッパの教会のような豊かな残響を生み出す録音場所を求めてさまざまな所を訪れるが、その中に宮城まり子さんの「ねむの木学園」の新しい美術館が候補に上がって静岡県の掛川まで下見に行き、園長の宮城まり子さんとは60年ぶりの再会を果たす。結局、青木さんの病気などもあって美術館では録音することができなかったのだが、二人の交流は続いて六本木ヒルズでの「ねむの木学園」の美術展の模様が映し出される。

かつて岩波ホールで「ねむの木学園」のドキュメンタリー映画が上映されたことがあったが、その時のイメージを持って子どもたちの絵を見ると、格段に進歩していて確かに美術館があってもおかしくないような水準の高い絵が展示されていたことに驚いた。モダンなアート作品を見るように新鮮な驚きが彼らの絵にはあったからだ。そんな絵を見て、子どもたちの合唱に耳を傾ける青木さんの姿がいい。普通なら有名人と一緒に記録映画に出るということになれば、少しは浮ついたところがあってもよさそうなのだが、全くの自然体でブレるところがない。映画のほぼ全編で青木さんはニコニコと微笑んでいて、演奏している最中でさえ真剣に音楽と格闘しているように見えても、表情は笑っていなくても笑っているように見えるのが不思議。

そして青木さんの温かい声で語られる言葉の数々に大いに感銘を受けることなる。それは青木さんのCDに収められている音楽と同じなのかもしれないと思えた。自分の身体の中には不協和音が響いていること。多くの人は心に傷を持っているが、その傷を直してくれるのが「音楽」であること。クラシック音楽は「品格」だということ。などなど…。映画の上映時間は1時間半ほどと短いはずなのだが、まるで青木さんとの会話を楽しんでいるかのように充実した時間が流れていった。CDの録音も無事に終了し、昨年の夏の姿が映し出されて映画は終わってしまうのだが、自分の人生の中でこれほど刺激に満ちた1時間半があっただろうかと自問自答してみた。おそらく初めての経験だったろうと思う。もう一度、この映画を観たいと思ったが今日が最終日ではどうすることもできない。DVDが発売されないだろうか。

映画は青木さんのコンサートの様子。長岡京アンサンブルを主催する森 悠子との再会。その長岡京アンサンブルと共演することとなった当時16歳のチェリスト堀江牧生との共演の模様。さらに青木さんの自宅を森さんと堀江君が訪ねて個人レッスンをうけるところなどが映される。特に年齢差が75歳のチェリスト同士が、同じ長岡京アンサンブルと共演するのが面白く思えた。

そのほか、青木さんが指導する弦楽アンサンブルの練習風景などがある。青木さんの的確な指示で音楽がどんどんよくなっていくところとか、青木さんの柔らかな音色を出すボーイングの秘密とか、多少なりとも弦楽器を演奏した経験のある者には興味深い場面が続く。90歳を過ぎてもさらなる高みを目指そうとする青木さんの姿に大いに感銘を受けた。しかも常にニコニコとされ穏やかで上品な姿が、青木さんの「自尊」とはこれなのだとも感じた。

そんな芸術家の姿を見て思い出したのは文化勲章も受章された画家の中川一政さんである。独特のタッチの薔薇や箱根の駒ヶ岳など有名な画家であり随筆家である。油絵だけでなく、書や陶芸にも数多くの作品を残したが、芸人の片岡鶴太郎がマネをしているのに誰も何も言わないのが不思議である。俳優の緒形拳も「書」では似たようなことをしていたように思うが、こちらは中川さんに教えを乞うこともあったらしいから問題ないのだが。

そんな中川一政さんが97歳の時に書かれた「正念場」という「書」を天使はパソコンの壁紙にし、ケータイの待受画面にしている。97歳になっても絵を描き続け、さらなる高みを目指そうとしていた中川さんと青木さんの姿が重なった。版画のついた「中川一政文集」は天使の宝物だが、青木さんのことを書いた大原哲夫さんの『チェリスト、青木十良』も長く読み継いでいきたい本になった。

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<ストーリー>
チェリスト・青木十良は80歳を過ぎて念願だった
バッハ「無伴奏チェロ組曲」の録音に挑戦した。
85歳で「第6番」、91歳で「第5番」、「第4番」は94歳の時であった。
この映画は、90歳を越えてからの6年間を追っている。
「ねむの木学園」園長の宮城まり子とは60年ぶりに再会した。
ヴァイオリニスト森悠子とは40年ぶりの再会と
森が音楽監督を務める長岡京室内アンサンブルとの初協演を果たした。
音楽的にも技術的にも難しいといわれる「無伴奏チェロ組曲」。
1年間にも及んだ体調不良、それでも青木は屈しなかった。
10年の時をかけ「無伴奏チェロ組曲」の録音を終える。

監督・撮影 藤原道夫
出演 青木十良 
    森 悠子
    堀江牧生
    宮城まり子
製作・配給 メディア・ワン
2012年作品/ステレオ/4:3/93分

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青木十良 (チェリスト)
1915年、貿易商の家に生まれ音楽や文学に囲まれて育つ。
15歳でクレンゲルの弟子からチェロの手ほどきを受ける。
戦前にNHKに入り、チェロ奏者として多くの日本初演を行う。
桐朋学園、ソルフェージスクールで長年後進の指導にもあたり、
多くの優れたチェリストを育てた。
2002年を皮切りに「グレート・マスターズ」(紀尾井ホール)に出演し、
美しさを極めた音色で多くの聴衆を魅了。
2006年、第16回新日鉄音楽賞(特別賞)を受賞。
2009年、ミュージック・ペンクラブ音楽賞(特別賞)を受賞。

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森 悠子 (ヴァイオリニスト・長岡京室内アンサンブル音楽監督)
桐朋学園で斉藤秀雄に師事。10代で青木十良らと国内演奏活動を行う。 
20代から30年に亘ってヨーロッパ、アメリカで演奏家として活躍、
さらに指導者として多くの演奏家を育てた。
1997年、長岡京室内アンサンブルを創設。

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堀江牧生 (チェリスト)
1990年生まれ。3歳からチェロを始め、6歳から毎年リサイタルを開く。 
歴代最年少の9歳で「札幌ジュニアチェロコンクール」優秀賞と山藤賞を受賞。
「スロバキア国際チェロフェスティバル」の12~14歳部門で第一位。
15歳でオーケストラと協演を果たす。現在モスクワに留学中。

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宮城まり子 (ねむの木学園園長/写真右)
1927年生まれ。歌手・女優・映画監督・福祉事業家。東京都名誉都民。
1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立。
歌手時代、宮城は歌手として青木と舞台で協演している。

監督・撮影 藤原道夫 (メディア・ワン)
1967年、助監督として映画製作の現場に参加。記録映画、劇映画の製作に携わる。
1971年、短編記録映画を初監督。
1974年、TVドキュメンタリーのディレクターとして番組を制作。
「萬里の長城」「日本海大紀行」など、長編ドキュメンタリーを演出する。
記録映画「永井荷風」「宮本常一」「渋沢敬三」などの評伝作品の監督作品も数多い。


プロデューサー 牧弘子 (メディア・ワン)
TVドキュメンタリー「小沢征爾1991」を皮切りに「サイトウ・キネン・オーケストラ’93」、
「小沢征爾 ボストン交響楽団と共に20年」、「オペラTOSCA 200年の時空を超えて」、
「ザルツブルグ音楽祭 世紀の名指揮者ショルティが紡ぐ華麗なる音楽生活80年の光と影」、
「日系三世ケント・ナガノ第二のバーンスタイン・世界を駆ける」、
「生きる オペラが育てる仲間とちから大谷洌子」など音楽関連ドキュメンタリーの制作に携わる


バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番

バッハ:無伴奏チェロ組曲第6番

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: インポート・ミュージック・サービス
  • 発売日: 2002/11/22
  • メディア: CD



バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番

バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番

  • アーティスト: 青木十良
  • 出版社/メーカー: インディーズ・メーカー
  • 発売日: 2006/06/16
  • メディア: CD



バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番

バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: インポート・ミュージック・サービス
  • 発売日: 2011/07/15
  • メディア: CD



チェリスト、青木十良

チェリスト、青木十良

  • 作者: 大原哲夫
  • 出版社/メーカー: 飛鳥新社
  • 発売日: 2011/07/08
  • メディア: 単行本



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平成中村座 法界坊 千秋楽あれこれ [歌舞伎]

今月から、ちょっぴり昇進して忙しいポジションに異動。午前中に出勤しても日付が変わるまで帰れない毎日に・・・。労働時間が長くなり、さらに予定していた休みも次々に仕事になって、せっかく買ってあったチケットが次々に無駄になってしまって、とうとう新橋演舞場は全滅。無理矢理時間をやり繰りしてなんとか昼の部と夜の部を観たのだけれど、あの若手花形の顔ぶれでは疲れが倍増してしまって七段目でギブアップしてしまった。国立劇場もなんとか観ることができたけれど、今後もなかなか予定通りにいかない見通しなので、前売り券が買いにくくなってしまい困った。昨日も新橋演舞場の猿之助と中車の襲名披露公演の日程を迷っているうちに昼の部はお目当ての日が売り切れてしまって完全に出遅れてしまった。

後半になってようやく余裕ができそうだったので、平成中村座の「法界坊」の千秋楽のチケットをなんとか手に入れて、今日は墨田公園へでかけた。曇空ながら東京スカイツリーもその全容を眺めることができた。開演の時刻には天皇皇后両陛下がご見学だったらしく、眺望を楽しまれたようだったのが何より。

勘三郎の『法界坊』は初日に観て久々に興奮した舞台だったので千秋楽は、さぞ面白かろうと期待してでかけた。確かに千秋楽らしいハプニングの数々があり、面白い舞台ではあるけれど、それだけかなあという感じで散発的な笑いはあるけれど感動はない舞台だった。さすがに病み上がりの勘三郎にも疲れが隠せなくて、今月はかなり無理をしてきたようで心配になる。

さて初日と違っていた部分は、笹野が側転した時に草履を飛ばしてしまい頭に乗せて誤魔化していたこと。手紙の手助けをする黒子の頭巾を勘九郎が取ってしまい素顔をさらしてしまったこと。亀蔵が例の特殊な動きで扇雀に近づくときに、扇雀の身体の上でいつまでも回転していたこと。さすがに扇雀はふいていた。勘三郎も亀蔵の動きの真似をしていたこと。そして亀蔵らの何故かオペラ調の歌唱と演技。これには個人的に大受け。さすがに後半になるにつれ、話がシリアスになるのでお遊びは影を潜めたけれど、千秋楽らしい趣向に満ちた舞台だった。

客席も千秋楽だけあって満員御礼。以前も突如として出現していたらしい舞台上の座席である『羅漢席』が設置されていて下手に4名、上手に2名の観客が舞台に座布団を敷いて、新たに造られたらしい手すりに囲まれた部分に座っていた。確かに臨場感はあるが、多くの観客の目があるので姿勢を崩すことができないのが気の毒。最後の所作事ではずっと正座して観るのは辛かったかも。カーテンコールでのスタンディングオベーションにも参加は禁じられているようで大盛り上がりの中でジッとしているのはつまらなかったかもしれない。

客席には演出家の串田和美、宮藤官九郎がいて、法界坊が手紙をお客に見せる演出では無理矢理ひっぱりだされていた。カーテンコールは2回あって、最後に勘三郎が挨拶。江戸時代の中村座の開場時の演目が同じ「法界坊」だったこと。2ヶ月に渡った笹野高史を引っ張り出して御礼。病気をする前の演目が『法界坊』だったので、同じ演目で復帰できて嬉しかったこと。6月のコクーン歌舞伎の紹介、そして観客への御礼などがあって幕となった。

舞台奥の土手の通路には初日にはいなかった見物人が10人?ほど。千秋楽とあって裏方が旭日旗を振り回す謎のパフォーマンスなどもあった。そうした熱気とは別に、前半の舞台が終るとどんどん舞台装置がトラックに積み込まれていっていてプロの仕事が繰り広げられていたようである。いよいよ来月は平成中村座の最後の舞台になる。初役の『め組の喧嘩』、『髪結新三』と最初の頃には考えられなかった完全復帰の舞台なのだが、七ヶ月休みなしで舞台に立っているのだから、くれぐれも無理をしないで欲しい。今はただ無事に千秋楽を迎えてくれるように祈るだけである。そして勘九郎と七之助の目覚しい成長ぶりが頼もしい。特に来月は新橋演舞場と掛け持ち出演の七之助の女形の大役を次々に務め、大きな成果をあげたことは歌舞伎の将来にとっても嬉しい出来事だった。
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美輪明宏版 椿姫  ル テアトル銀座 [演劇]

ヴェルディのオペラ「オテロ」を観た後に、お芝居の「椿姫」を観る。アレクサンドル・デュマ・フィスの原作によっているので、オペラ「La traviata」と違ってオペラのヴィオレッタはマルグリット、アルフレードはアルマンという役名なのだが、物語はオペラの展開とほぼ同じ。お芝居の「椿姫」は坂東玉三郎が日生劇場、太地真央が新橋演舞場でかつて演じている。美輪も独自の脚本と演出、美術、衣裳で再演を重ねていて、現代で高級娼婦でありながら、清らかな愛のかたち「無償の愛」を演じられるのは彼女以外にいない。

美輪板椿姫は、なんと今時珍しい上演時間が3時間40分以上で終演は22時過ぎ。そのほとんどの場面に出ずっぱりの美輪のパワーに圧倒されるばかりでカーテンコールは、まさかの観客が総立ちのスタンディングオベーション。衣裳と宝石は美しく輝いていて凄かったけれど、舞台装置は意外と平面的で華麗であっても簡素なのは、移動公演を考慮してなのかも。その反面、劇場ロビーの床には薔薇をプリントした赤いリノリュームが敷き詰められ、所狭しと置かれた胡蝶蘭や花籠は花屋3軒分ぐらいあって圧巻。そのなかでも、假屋崎省吾と坂東玉三郎の紫色の胡蝶蘭に気品があって他の下品な花々を凌駕していたのは流石だった。某歌手の自分の名前を大書した看板を花につける神経がわからなかったけれど。贈答用の花でも送る人の品位が露になるので怖いものである。

日本で言えば吉原の太夫にも匹敵する美貌と教養を身に付けていた貴婦人たちのいない半分(ドゥミ)だけの上流社会(ドゥミ・モンド)に君臨するマルグリット。その特異な存在を演じるには、劇界においてもその存在そのものが世間の常識を遥かに超える孤高な人である美輪明宏にふさわしく、美輪とマルグリットが重なって見えるのが不思議でもある。

確かに加齢による容姿の衰えはいかんともし難く、最初は病弱な美人にはなかなか見えなかったののだけれど
最後には年齢の壁やこれ以上塗れないのではと思えるほどの異様なメイクの壁を超えて、「無償の愛」に生きたマルグリットを見事に演じてみせた。幕毎に変わる華麗な衣裳、光り輝く宝石が本物らしく美しさを堪能した。また美輪の手による脚本も伝えるべきことは伝えたいという意欲がみなぎるような迫力のあるものだったが。笑いの要素が少なく、悲劇の側面、特に自ら身を引くという新派悲劇風の大芝居を大真面目に演じていて、近頃の軽薄な芝居とは一線を画すもので好印象を受けた。

相手役となる木村彰吾はポスターでは、昭和の匂いをまとった美青年風なのだが、世間知らずで少々思慮に欠ける若者を演じて巧みである。打算のない彼だからこそ、特異な境遇にある女性であっても愛することのできる純粋さを持っていたのだと納得できる演技だった。

純粋さでは原発反対を表明して仕事を失うことになった反骨の俳優である山本太郎がキャスティングされたのも好ましい。どう見ても社交界を軽々と泳ぎ回るフランス青年・ガストンそのものだったのが彼の役者魂を感じさせて嬉しかった。逆風に負けずに信念をつらぬいて欲しい。

そのほか父親役の勝部演之、恋敵の野仲イサオ、マルグリットの女友達である白川和子など、適材適所の渋い配役で楽しめた。ただし、会話中心の室内劇といったものだけに東京の劇場はともかく、地方の巨大な劇場では、すべての観客に伝わるかどうか心配にもなった。美輪の台詞には軽くPAを使用していたようで心配はないが、現代の観客に4時間近い芝居は辛く感じるかもしれない。舞台にはコンチネンタルタンゴ、ヴェルディのオペラの旋律が流れ、アールヌーヴォー、アールデコ、クリムト、その他いろいろな様式が入り乱れているのだが、美輪の美意識ですべてを盛り込みましたという形式なので意外に統一感があったのは流石である。しかも脇役に至るまで衣裳、小物に至るまで目が行き届いているのが分かるのも、俺が俺がの役者が多い中にあって演出者としての客観性を欠いていなかったためと思われる。

それにしても毎回、開演前に男性アナウンスで「くしゃみやセキをする時には、口元をタオルやハンカチで押えてくださいますようお願い申し上げます」というのがあるのが不思議である。苦情があったためらしいが、する方もする方だし、アナウンスをするようにねじ込んだ方もねじ込んだ方のように思えるがどうだろう。地震などの非常時には、係員の指示があるまで席で待つようにともアナウンスも各劇場でされるようになったが、実際の時にはどうなることやら。観ていたときにも弱い地震があったが、それまで弛緩していた劇場の空気が一変して緊張感が走ったのがわかった。

このごろの観劇で持ち歩くバックのなかには、携帯ラジオ、スマートフォン、携帯電話、非常用の携帯用電池、ペンライト、ホイッスル、携帯用の食料、ペットボトルの水を欠かさないし、服用している薬も数日分を持ち歩くようになった。靴も歩きやすいものに変えて自衛しているが何事もないことを祈るばかりである。


2012年4月13日(金)18時30分開演 ル テアトル銀座

美輪明宏:脚本・演出・美術・衣裳


美輪明宏をはじめ、木村彰吾・山本太郎・勝部演之・野仲イサオ・田中要次・白川和子・夏樹陽子

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オテロ 千秋楽 新国立劇場  [オペラ]

前回も前々回もデズデモーナ役が降板してしまった新国立劇場の『オテロ』。今回も昨年のMETの来日公演で『ドン・カルロ』のエリザベッタ役を急遽来日して歌ったマリーナ・ポプラフスカヤが降板。マリア・ルイジア・ボルシ
がデズデモーナを歌うことに。これが大正解で素晴らしい歌唱と演技で観客を魅了して大きな喝采を集めていた。

2009年の新制作の再演で50tの本水を使って舞台上にヴエニスの運河を再現したのが売りの演出。全5回のうち14時開演が4回で土日以外の平日マチネ公演が2回もあるのが特徴。ソワレ公演よりも観客動員に有利という事情はあろうが、観客の平均年齢の高さを考えると問題もあるように思えた。大量の団塊の世代が主な観客層となるであろう今後10年ほどは問題がなかろうが、今が働き盛りの世代へのアピールや若い観客を育てなければ衰退は明らかである。

さて今回の公演は音楽的には高水準で満足。ジャン・レイサム=ケーニックが指揮する東京フィルハーモニー交響楽団はヴェルディらしい重厚で生命力に満ち溢れた音楽を雄弁に奏でて素晴らしかった。デズデモーナのマリア・ルイジア・ボルシをはじめとして、歌手陣もイアーゴのミカエル・ババジャニアンが悪魔的な声と演技で存在感を示してオペラ全体を支配した。オテロのヴァルテル・フラッカーロも輝かしい声に多少の迫力不足はあったもののテノールの難役をなんとか歌いきって健闘した。そのほか、エミーリアの清水華澄、ロドヴィーコの松位 浩、
カッシオの小原啓楼、ロデリーゴの内山信吾、モンターノの久保田真澄など二期会、藤原歌劇団、東京オペラプロデュース、フリーなど幅広い適材適所の歌手が集められ、全員がなかなかの好演で成功の一因となった。

音楽面の充実や満足感に比べると、マリオ・マルトーネの演出は凡庸そのもの。東日本大震災以前の演出だが、新制作が震災以降だったら水を使った演出をしたかどうか…。ヴェネツィア共和国が支配する地中海のキプロス島が舞台のはずなのに、この演出では運河に取り囲まれたヴェネツィアが舞台、風俗はオペラの作曲された19世紀後半に設定されていた。プログラムで演出家がくどくどと解説していたけれど、新国立劇場の舞台上に初めて本水を使ったのを名誉としたいという程度のアイディアで陳腐そのもの。

舞台中央にオテロとデズデモーナの寝室となる塔というか狭い居住スペースがあって回転して様々な場面を構成する仕掛けなのだが観客の想像力を全く刺激しない舞台装置。その周囲を狭い井桁のような通路があって、舞台下手に大きめな運河があって後方には橋がかかっている。ところが、どう見てもヴェネツィアというよりも潮来の水郷のイメージなのである。ゴンドラよりも「潮来花嫁さん」を乗せた小舟が似合いそうである。照明を使って水の波紋をヴェネツィアの街並みの壁に映し出して、オテロの苦悩を表現したり、花火をあげたり、本火を使ったりするという手法を使いたいためだけのアイディアに終わったように思う。

せっかくの本水を使いながら、イアーゴが「クレード」でくるぶしまでの浅い水に入るくらいで演技面では歌手に負担がかからない程度に終わってしまっていた。今月は平成中村座でも「小笠原騒動」で橋之助と勘九郎が、本水を使って立ち回りをして、最前列の観客はビニールをかぶっての観劇となっていたが、さすがにオペラではそうした使い方は無理。せっかく運河があるならば、デズデモーナがゴンドラに乗って登場するなどという西洋版「潮来花嫁さん」を再現してもよかったかも。かつて坂東玉三郎が松緑と演じた「オセロ」では、デズデモーナが花道からゴンドラに乗って登場したのではなかったろうか。

その運河なのだがバスクリンの緑色?に着色された「水」が穏やかすぎて物足りない。冒頭の嵐の場面でも小波ひとつたたない不自然さにスッと醒めてしまうのである。多くの日本人は、長年の風水害の記憶から水の凶暴さを知っているのである。震災後はなおさらである。

役たたずの運河のおかげで、演技スペースが限られてしまい、役と役の間の距離感も離れすぎてしまう、あるいは近すぎるような場面が多々あって物語が停滞する。特に不満だったのは、オテロとデズデモーナの愛の絶頂期を印象づけるはずの第1幕の「愛の二重唱」がまったく引き立たなくてがっかりさせられた。合唱団も舞台前面か左右の狭いスペースに集合?するしかないので演技らしい演技などできるはずもない。オテロに至っては、冒頭の登場で下手のオーケストラピットにかけられた花道?風の通路を歩んできた。これも歌舞伎の花道は、単なる通路ではないと知っている多くの日本人の観客にとっては辛い演出。そんな演出の不満を差し引いても音楽面の充実で満足できた公演だったは幸いだった。

2012年4月13日 14時開演 新国立劇場 

スタッフ
【指 揮】ジャン・レイサム=ケーニック
【演 出】マリオ・マルトーネ
【美 術】マルゲリータ・パッリ
【衣 裳】ウルスラ・パーツァック
【照 明】川口雅弘

キャスト
【オテロ】ヴァルテル・フラッカーロ
【デズデーモナ】マリア・ルイジア・ボルシ
【イアーゴ】ミカエル・ババジャニアン
【ロドヴィーコ】松位 浩
【カッシオ】小原啓楼
【エミーリア】清水華澄
【ロデリーゴ】内山信吾
【モンターノ】久保田真澄
【伝 令】タン・ジュンボ

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団


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