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日本フィルハーモニー交響楽団 第348回名曲コンサート ゲスト:純名里沙 [コンサート]
久しぶりで日本フィルの演奏会にでかけた。サントリーホールの日曜日14時30分開演の名曲コンサートである。ニューイヤーコンサートとしては月末、旧正月も終ってしまってタイミングはあまり良くない。しかも前半が元宝塚の純名里沙をゲストに迎えてのミュージカルナンバー、後半がシュトラウスの名曲集という、一粒で二度美味しいというよりも、どっちつかずの中途半端な内容。さすがに聴衆もバカではないので、集客に苦労したのかディスカウントチケットがWEBのチケット・エージェントに出ていたので手に入れたのである。実は予定していたスケジュールが延期になってしまい急遽でかけたという訳である。
会場に入るとステージ前面中央にポップスのコンサートでお馴染みのメイヤーのスピーカーが吊るされていた。例のスピーカーが連結されて繋がり湾曲しているアレである。もちろんドームなどのコンサートとは違って数台のスピーカーだか、ホールのシャンデリアと同じくらいの長さはあった。ステージのサイドにも同じくメイヤーのスピーカーが置かれ、指揮台の脇にはステージのモニター用のスピーカーとマイクスタンドがあった。音響調整卓は1階席最後方の凹んだ部分に置かれていた。
時間になって楽員が入場。少し遅れてコンサートマスターの木野雅之が拍手に迎えられて入場。久しぶりに見た彼はすっかりオジサンになっていて体型も貫禄がでていた。ほぼ15年ぶりだから印象が劇的に変貌しているのは当たり前ではある。
「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽が始まっても純名里沙は登場しないのでどうしたものかと思ったら、やがて青系のドレスをまとった彼女が登場して歌いだすという演出。マイクとの距離感がつかめなかたのか不安定な出だし、高音も物足りなかったが女優らしい演技力で聴かせる方向の歌。ただし英語で歌われたので細かいニュアンスが伝わってこないのがもどかしかった。
次の「踊り明かそう」はスタンドマイクを手持ちに変えて少々演技を加えての歌。相変わらず高音の音程が定まらないのとマイクとの距離がつかめないのか音圧がありすぎてせっかくのオーケストラとの音楽のバランスが悪い。さらにウエストサイド物語の「Tonight」はトニーの歌の部分をオーケストラが担当するという変則版。デュエット曲をあえて一人で歌うという意味がわからなかったけれど、まあ有名曲なので外せなかったのだろう。音は外していたけれど…。
最悪だったのは《オペラ座の怪人》から「Music of the Night」。本来はファントムのナンバーなのに何故か彼女が歌うことに。それでなくても最難関の楽曲なのにという不安が的中。音がぶら下がりぎみで気持ち悪いこと気持ち悪いこと。いくら現代作曲家のロイド=ウェバーでもこんな不協和音は書いていないなずなのだが…。
結局前半で一番楽しめたのはバーンスタインの《キャンディード》序曲だった。明晰で軽快な音楽が響いて好感。藤岡幸夫とオーケストラの相性は非常に良かったようで、これまでの不調を一気に吹き飛ばす演奏だった。
そしてミュージカルナンバーの最後は《キャンディード》のコロラチューラの難曲「Glitter and Be Gay」を訳詞で歌った。本人は英語で勉強していたらしいが、指揮者の強い要望で日本語で歌われることになったらしい。ミュージカル風に歌われたり、オペラ的に歌われたりする曲だが、今回はもちろんミュージカル風でテクニック的には感心することはなかったし、期待された演技も観客にはなかなか伝わってこなかったようで欲求不満の残る前半となってしまった。
休憩後はステージのモニタースピーカーが舞台端まで移動されてアンコール曲があるのを予感させてウィーンナワルツが始まった。前半もそうだったのだが、指揮者によるMCがあって一曲ごとに解説が入る形式。どの曲も有名曲で、個々のソロなどもあってなかなか楽しめる演奏が続いて満足。「こうもり序曲」とか「美しき青きドナウ」とか「ラディツキー行進曲」なんていう定番曲ではないところも良かった。
アンコールには純名里沙がドレスと同じワインレッドのショールを身に着けて再び登場。 ズィーチンスキー作曲の「ウィーンわが夢の街」を日本語で歌って締めくくった。これもPAと通した歌なのでミュージカル曲ではないだけに違和感が残った。動員を考えて純名里沙を登場させたのだろうが、動員の面でも音楽面でも成功とは言いがたかったようである。英語で歌われたナンバーの数々も、ブロードウエイで歌っているようなミュージカル女優の歌とは根本的に発声が違うようで、興奮や感動を呼ばないことはどうしたことだろう。一番物足りないのは「歌心」だったようで説得力のない上辺だけの音楽に終始していたのは残念だった。
指揮:藤岡幸夫
ゲスト:純名里沙
コンサートマスター:木野雅之
《サウンド・オブ・ミュージック》より
「サウンド・オブ・ミュージック」
作詞:オスカーハマースタイン二世 作曲:リチャード・ロジャース 編曲:藤野浩一
《マイ・フェア・レディ》より
「踊り明かそう」
作詞:アラン・ジェイ・ライナー 作曲:フレデリック・ロウ
《ウェスト・サイド・ストーリー》より
「Tonight」
作詞:スティーヴン・ソンドハイム 作曲:レナード・バーンスタイン
《オペラ座の怪人》より
「Music of the Night」
作詞:チャールズ・ハート 作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
バーンスタイン:《キャンディード》序曲
《キャンディード》より
「Glitter and Be Gay」
作詞:リチャード・ウィルバー 作曲:レナード・バーンスタイン 訳詞:松田直行
休憩 15分
レハール:ワルツ《金と銀》
ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》
J.シュトラウスII世:ワルツ《ウィーン気質》
J.シュトラウスII世:チクタク・ポルカ
J.シュトラウスII世:ワルツ《ウィーンの森の物語》
アンコール曲
ズィーチンスキー作曲:ウィーンわが夢の街
会場に入るとステージ前面中央にポップスのコンサートでお馴染みのメイヤーのスピーカーが吊るされていた。例のスピーカーが連結されて繋がり湾曲しているアレである。もちろんドームなどのコンサートとは違って数台のスピーカーだか、ホールのシャンデリアと同じくらいの長さはあった。ステージのサイドにも同じくメイヤーのスピーカーが置かれ、指揮台の脇にはステージのモニター用のスピーカーとマイクスタンドがあった。音響調整卓は1階席最後方の凹んだ部分に置かれていた。
時間になって楽員が入場。少し遅れてコンサートマスターの木野雅之が拍手に迎えられて入場。久しぶりに見た彼はすっかりオジサンになっていて体型も貫禄がでていた。ほぼ15年ぶりだから印象が劇的に変貌しているのは当たり前ではある。
「サウンド・オブ・ミュージック」の音楽が始まっても純名里沙は登場しないのでどうしたものかと思ったら、やがて青系のドレスをまとった彼女が登場して歌いだすという演出。マイクとの距離感がつかめなかたのか不安定な出だし、高音も物足りなかったが女優らしい演技力で聴かせる方向の歌。ただし英語で歌われたので細かいニュアンスが伝わってこないのがもどかしかった。
次の「踊り明かそう」はスタンドマイクを手持ちに変えて少々演技を加えての歌。相変わらず高音の音程が定まらないのとマイクとの距離がつかめないのか音圧がありすぎてせっかくのオーケストラとの音楽のバランスが悪い。さらにウエストサイド物語の「Tonight」はトニーの歌の部分をオーケストラが担当するという変則版。デュエット曲をあえて一人で歌うという意味がわからなかったけれど、まあ有名曲なので外せなかったのだろう。音は外していたけれど…。
最悪だったのは《オペラ座の怪人》から「Music of the Night」。本来はファントムのナンバーなのに何故か彼女が歌うことに。それでなくても最難関の楽曲なのにという不安が的中。音がぶら下がりぎみで気持ち悪いこと気持ち悪いこと。いくら現代作曲家のロイド=ウェバーでもこんな不協和音は書いていないなずなのだが…。
結局前半で一番楽しめたのはバーンスタインの《キャンディード》序曲だった。明晰で軽快な音楽が響いて好感。藤岡幸夫とオーケストラの相性は非常に良かったようで、これまでの不調を一気に吹き飛ばす演奏だった。
そしてミュージカルナンバーの最後は《キャンディード》のコロラチューラの難曲「Glitter and Be Gay」を訳詞で歌った。本人は英語で勉強していたらしいが、指揮者の強い要望で日本語で歌われることになったらしい。ミュージカル風に歌われたり、オペラ的に歌われたりする曲だが、今回はもちろんミュージカル風でテクニック的には感心することはなかったし、期待された演技も観客にはなかなか伝わってこなかったようで欲求不満の残る前半となってしまった。
休憩後はステージのモニタースピーカーが舞台端まで移動されてアンコール曲があるのを予感させてウィーンナワルツが始まった。前半もそうだったのだが、指揮者によるMCがあって一曲ごとに解説が入る形式。どの曲も有名曲で、個々のソロなどもあってなかなか楽しめる演奏が続いて満足。「こうもり序曲」とか「美しき青きドナウ」とか「ラディツキー行進曲」なんていう定番曲ではないところも良かった。
アンコールには純名里沙がドレスと同じワインレッドのショールを身に着けて再び登場。 ズィーチンスキー作曲の「ウィーンわが夢の街」を日本語で歌って締めくくった。これもPAと通した歌なのでミュージカル曲ではないだけに違和感が残った。動員を考えて純名里沙を登場させたのだろうが、動員の面でも音楽面でも成功とは言いがたかったようである。英語で歌われたナンバーの数々も、ブロードウエイで歌っているようなミュージカル女優の歌とは根本的に発声が違うようで、興奮や感動を呼ばないことはどうしたことだろう。一番物足りないのは「歌心」だったようで説得力のない上辺だけの音楽に終始していたのは残念だった。
指揮:藤岡幸夫
ゲスト:純名里沙
コンサートマスター:木野雅之
《サウンド・オブ・ミュージック》より
「サウンド・オブ・ミュージック」
作詞:オスカーハマースタイン二世 作曲:リチャード・ロジャース 編曲:藤野浩一
《マイ・フェア・レディ》より
「踊り明かそう」
作詞:アラン・ジェイ・ライナー 作曲:フレデリック・ロウ
《ウェスト・サイド・ストーリー》より
「Tonight」
作詞:スティーヴン・ソンドハイム 作曲:レナード・バーンスタイン
《オペラ座の怪人》より
「Music of the Night」
作詞:チャールズ・ハート 作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
バーンスタイン:《キャンディード》序曲
《キャンディード》より
「Glitter and Be Gay」
作詞:リチャード・ウィルバー 作曲:レナード・バーンスタイン 訳詞:松田直行
休憩 15分
レハール:ワルツ《金と銀》
ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》
J.シュトラウスII世:ワルツ《ウィーン気質》
J.シュトラウスII世:チクタク・ポルカ
J.シュトラウスII世:ワルツ《ウィーンの森の物語》
アンコール曲
ズィーチンスキー作曲:ウィーンわが夢の街
南総里見八犬伝 吉田屋 新春浅草歌舞伎・昼の部 千秋楽 [歌舞伎]
不入りからの出発
今年の浅草歌舞伎は、レギュラーだった勘太郎と七之助兄弟が抜け、亀治郎のマンマンショーの様相を呈していた。そんな中にあって、これまでの浅草歌舞伎らしい新鮮さを持った演目として『吉田屋』を興味深く観た。昭和54年の1月に生まれて初めて観た歌舞伎の演目のひとつが十三代目仁左衛門による『吉田屋』だったからだ。その月の夜の部は、曽我物の短い開幕舞踊『根元草摺引』、勘三郎の『一条大蔵卿』、幸四郎の『御浜御殿』とつくり阿呆がテーマ?の芝居が二本続き、最後に『吉田屋』が上演されたのだった。
歌舞伎の人気が低迷していた時期だけあって3階席は最前列以外はガラガラ。しかも『吉田屋』の開幕時間が21時近くとあっては、最後の演目を観ないで席を立つ人が多かった。今は20時半前後に終演が普通だが、当時はそこからもうひとつ芝居が上演されていたような具合である。大幹部の立役のそれぞれの得意演目を演じさせて顔を立てるという観客よりも役者重視の演目選定の傾向があったのだった。当時の方が交通事情は悪、かったのだから無茶な話しである。仁左衛門という重い名でありながら上方役者故の冷遇ぶり。空席ばかりの客席を観て、どのような気持ちで仁左衛門は演じていたのか…。
歌舞伎座に連れて行ってくれた東京の叔父が、揚幕係の倉沢小三郎さん、通称「揚幕のコーさん」を知っていて挨拶に行ったら、「そこに座りなさいよ」と誰一人観客が座っていない花道の外側の席に座らせてくれた。黒御簾が目の前で、生で聴く下座の三味線の音が素晴らしかったこと、花道を出た伊左衛門の顔を覗いたら、お爺さんが白粉を塗っているみたいで驚いたことなどが思い出される。初心者の観客としては何もわからず、ただ舞台を眺めていただけで何も覚えていないのが情けない。
芝翫の夕霧、歌舞伎に復帰したばかりの好太郎の喜左衛門、古風な女方で大好きになった我童のおきさ、そして児太郎(現在の福助)の太鼓持ちと好配役だったが、上方狂言ということと終演時間が22時近くと遅いので帰ってしまった観客が多かったのだと思う。そうして34年の歳月を経て、仁左衛門が好演した伊左衛門を愛之助が初役で挑戦した。夕霧も初役の壱太郎である。将来の上方歌舞伎の明暗は、この二人の双肩に掛かっているというべき配役である。はっきり言ってしまえば、初役らしい生真面目さは感じても、役に遊ぶ様な余裕は感じられずに、この古風な狂言のもつはずの面白さは全くない。
でも、そんなのは当たり前であって、何事にも性急に結果を求めたがる現代の風潮でもって歌舞伎の舞台を判断してもらっては困るのである。何事も最初の一歩がなければ始まらない。初役ならぬ自分が初めて歌舞伎を観た時の事を思い出して欲しい。天使は本当に何も解っていなかったし誤解もしていた。ただ、確かに言えるのは芝居を心から楽しんでいたこと。だから34年目の春を迎えることができたのである。この二人があと何年で『吉田屋』の面白さを伝えてくれるような役者になれるのか見届ける楽しみができたのだと嬉しい気持ちにもなった。
さて浅草歌舞伎の出演を通じて大きくなったのは亀治郎だろう。初期の客席はガラガラだったという。確かに顔ぶれと演目を観て浅草まで出かけるのを止めた記憶がある。あの仁左衛門と同じように空席を前にして演じる辛さが、今の輝きを生んだのかもしれない。その亀治郎が選んだのが辰歳なのに『南総里見八犬伝』である。もっとも浅草寺に因んで「金龍の舞」を当て込んだ小ネタはあった。
長編の物語を短く面白い芝居に仕上げるということなので物語の発端、庄屋蟇六とその妻・亀篠の強欲振りが笑わせる一幕、そして若手花形が総出演で犬山道節の亀治郎を中心にみせる「だんまり」と幕外の飛び六方が見せ場の芝居で面白く仕上がっていた。しかも歌舞伎の有名作品からの引用が数多くあるので、歌舞伎好きの心をくすぐったり、初心者向けには歌舞伎演技の典型をみせる学習の場?にもなっているような頭の良い亀治郎らしい芝居である。
天使の世代はNHKの人形劇『新・八犬伝』を通じて実は『南総里見八犬伝』には詳しい。たぶん玉に書かれた文字や犬士の名前や生い立ちをかなりの人が記憶しているはずである。だから『八犬伝』を観ることは大変懐かしくもあり嬉しいことなのだ。
カタログ的な見方になるが、それなりに楽しめた。ただ喜劇を強調するあまりに、地声で台詞をしゃべったりする破調をねらった部分は、あの天使が大嫌いな『大江戸りぶんぐでっど』の歌舞伎を破壊した演技を思い出させて素直に笑えなかった。その一方、千秋楽らしい男女蔵のバカ殿メイクと珍妙な演技は歌舞伎らしい遊びと肯定したい。
「円塚山の場」は、若手役者が勢揃いで壮観。それこそ浅草歌舞伎に初出演の人たちばかりで、役が身についていない人もいれば、将来に期待を抱かせる逸材もいた。好感をもったのは犬田小文吾の種之助、犬坂毛野の米吉。間違いなく近い将来に人気役者となるに違いない。これに平成中村座に出演している梅枝や萬太郎が加われば萬屋&播磨屋一門会?のような気もするが、松竹の売り出し方如何で大ブレイクするかもしれない。そうした若手の中だと、竹三郎はもちろんのこと、亀鶴、薪車、春猿といった人々が身にまとう歌舞伎味といったものは、一朝一夕では備わらないのだと実感した。
第1部(午前11時開演)
お年玉〈年始ご挨拶〉
11:00-11:05
一、南総里見八犬伝
富山山中の場
大塚村庄屋蟇六内の場
11:05-11:55
幕間 10分
円塚山の場
12:05-12:40
庄屋蟇六/犬山道節 亀治郎
金碗大輔/簸上宮六 男女蔵
網干左母二郎 亀 鶴
犬塚信乃 歌 昇
犬村大角 巳之助
蟇六娘浜路 壱太郎
犬田小文吾 種之助
犬坂毛野 米 吉
犬江親兵衛 隼 人
下男額蔵実は犬川荘助 薪 車
伏姫 春 猿
蟇六女房亀篠 竹三郎
犬飼現八 愛之助
幕間 25分
二、夕霧 伊左衛門 廓文章
吉田屋
1:05-2:20
藤屋伊左衛門 愛之助
扇屋夕霧 壱太郎
吉田屋女房おきさ 春 猿
吉田屋喜左衛門 竹三郎
今年の浅草歌舞伎は、レギュラーだった勘太郎と七之助兄弟が抜け、亀治郎のマンマンショーの様相を呈していた。そんな中にあって、これまでの浅草歌舞伎らしい新鮮さを持った演目として『吉田屋』を興味深く観た。昭和54年の1月に生まれて初めて観た歌舞伎の演目のひとつが十三代目仁左衛門による『吉田屋』だったからだ。その月の夜の部は、曽我物の短い開幕舞踊『根元草摺引』、勘三郎の『一条大蔵卿』、幸四郎の『御浜御殿』とつくり阿呆がテーマ?の芝居が二本続き、最後に『吉田屋』が上演されたのだった。
歌舞伎の人気が低迷していた時期だけあって3階席は最前列以外はガラガラ。しかも『吉田屋』の開幕時間が21時近くとあっては、最後の演目を観ないで席を立つ人が多かった。今は20時半前後に終演が普通だが、当時はそこからもうひとつ芝居が上演されていたような具合である。大幹部の立役のそれぞれの得意演目を演じさせて顔を立てるという観客よりも役者重視の演目選定の傾向があったのだった。当時の方が交通事情は悪、かったのだから無茶な話しである。仁左衛門という重い名でありながら上方役者故の冷遇ぶり。空席ばかりの客席を観て、どのような気持ちで仁左衛門は演じていたのか…。
歌舞伎座に連れて行ってくれた東京の叔父が、揚幕係の倉沢小三郎さん、通称「揚幕のコーさん」を知っていて挨拶に行ったら、「そこに座りなさいよ」と誰一人観客が座っていない花道の外側の席に座らせてくれた。黒御簾が目の前で、生で聴く下座の三味線の音が素晴らしかったこと、花道を出た伊左衛門の顔を覗いたら、お爺さんが白粉を塗っているみたいで驚いたことなどが思い出される。初心者の観客としては何もわからず、ただ舞台を眺めていただけで何も覚えていないのが情けない。
芝翫の夕霧、歌舞伎に復帰したばかりの好太郎の喜左衛門、古風な女方で大好きになった我童のおきさ、そして児太郎(現在の福助)の太鼓持ちと好配役だったが、上方狂言ということと終演時間が22時近くと遅いので帰ってしまった観客が多かったのだと思う。そうして34年の歳月を経て、仁左衛門が好演した伊左衛門を愛之助が初役で挑戦した。夕霧も初役の壱太郎である。将来の上方歌舞伎の明暗は、この二人の双肩に掛かっているというべき配役である。はっきり言ってしまえば、初役らしい生真面目さは感じても、役に遊ぶ様な余裕は感じられずに、この古風な狂言のもつはずの面白さは全くない。
でも、そんなのは当たり前であって、何事にも性急に結果を求めたがる現代の風潮でもって歌舞伎の舞台を判断してもらっては困るのである。何事も最初の一歩がなければ始まらない。初役ならぬ自分が初めて歌舞伎を観た時の事を思い出して欲しい。天使は本当に何も解っていなかったし誤解もしていた。ただ、確かに言えるのは芝居を心から楽しんでいたこと。だから34年目の春を迎えることができたのである。この二人があと何年で『吉田屋』の面白さを伝えてくれるような役者になれるのか見届ける楽しみができたのだと嬉しい気持ちにもなった。
さて浅草歌舞伎の出演を通じて大きくなったのは亀治郎だろう。初期の客席はガラガラだったという。確かに顔ぶれと演目を観て浅草まで出かけるのを止めた記憶がある。あの仁左衛門と同じように空席を前にして演じる辛さが、今の輝きを生んだのかもしれない。その亀治郎が選んだのが辰歳なのに『南総里見八犬伝』である。もっとも浅草寺に因んで「金龍の舞」を当て込んだ小ネタはあった。
長編の物語を短く面白い芝居に仕上げるということなので物語の発端、庄屋蟇六とその妻・亀篠の強欲振りが笑わせる一幕、そして若手花形が総出演で犬山道節の亀治郎を中心にみせる「だんまり」と幕外の飛び六方が見せ場の芝居で面白く仕上がっていた。しかも歌舞伎の有名作品からの引用が数多くあるので、歌舞伎好きの心をくすぐったり、初心者向けには歌舞伎演技の典型をみせる学習の場?にもなっているような頭の良い亀治郎らしい芝居である。
天使の世代はNHKの人形劇『新・八犬伝』を通じて実は『南総里見八犬伝』には詳しい。たぶん玉に書かれた文字や犬士の名前や生い立ちをかなりの人が記憶しているはずである。だから『八犬伝』を観ることは大変懐かしくもあり嬉しいことなのだ。
カタログ的な見方になるが、それなりに楽しめた。ただ喜劇を強調するあまりに、地声で台詞をしゃべったりする破調をねらった部分は、あの天使が大嫌いな『大江戸りぶんぐでっど』の歌舞伎を破壊した演技を思い出させて素直に笑えなかった。その一方、千秋楽らしい男女蔵のバカ殿メイクと珍妙な演技は歌舞伎らしい遊びと肯定したい。
「円塚山の場」は、若手役者が勢揃いで壮観。それこそ浅草歌舞伎に初出演の人たちばかりで、役が身についていない人もいれば、将来に期待を抱かせる逸材もいた。好感をもったのは犬田小文吾の種之助、犬坂毛野の米吉。間違いなく近い将来に人気役者となるに違いない。これに平成中村座に出演している梅枝や萬太郎が加われば萬屋&播磨屋一門会?のような気もするが、松竹の売り出し方如何で大ブレイクするかもしれない。そうした若手の中だと、竹三郎はもちろんのこと、亀鶴、薪車、春猿といった人々が身にまとう歌舞伎味といったものは、一朝一夕では備わらないのだと実感した。
第1部(午前11時開演)
お年玉〈年始ご挨拶〉
11:00-11:05
一、南総里見八犬伝
富山山中の場
大塚村庄屋蟇六内の場
11:05-11:55
幕間 10分
円塚山の場
12:05-12:40
庄屋蟇六/犬山道節 亀治郎
金碗大輔/簸上宮六 男女蔵
網干左母二郎 亀 鶴
犬塚信乃 歌 昇
犬村大角 巳之助
蟇六娘浜路 壱太郎
犬田小文吾 種之助
犬坂毛野 米 吉
犬江親兵衛 隼 人
下男額蔵実は犬川荘助 薪 車
伏姫 春 猿
蟇六女房亀篠 竹三郎
犬飼現八 愛之助
幕間 25分
二、夕霧 伊左衛門 廓文章
吉田屋
1:05-2:20
藤屋伊左衛門 愛之助
扇屋夕霧 壱太郎
吉田屋女房おきさ 春 猿
吉田屋喜左衛門 竹三郎
新春浅草歌舞伎 千秋楽あれこれ [歌舞伎]
今月は東京だけでも五座で歌舞伎がかかった。浅草だけでも平成中村座と浅草公会堂の二座という盛況ぶりである。予定した日程では浅草公会堂の歌舞伎が見る事ができなくて、買い増ししたチケットでも結局でかけることができず、なんとか千秋楽に都合をつけて見る事ができた。芝居の感想は後にして、千秋楽ならではの出来事?を綴ってみたい。
まず、第一部の年始ご挨拶は愛之助。素顔に紋付羽織袴で型通りの口上。マイクに持ち替えて拍手の練習やら質問コーナーなどあって携帯電話の電源を切るマナーのネタで笑わせて、再び口上となって幕。質問コーナーでは、伊左衞門はやりたくない役と以前は新聞のインタビューで語っていたのに何故、今回演じる事になったのかという質問。答えは今やらないと死ぬまでできないからとかなんとか。少々苦しいこたえだったかも。
さて、『南総里見八犬伝』は千秋楽に初めて観た芝居なので、どこが通常の上演と違うのかは分からないのだが、明らかに千秋楽のソソリと思われる部分があった。天使が一番セクシーと感じる演劇評論家・渡辺保先生のWeb上では、男女蔵二役の代官は意外に可笑しみが薄いと書かれていた。それを知ってか知らずか、千秋楽の彼の扮装は、バカ殿メイクに『江戸の夕映』で演じた粉ひき男のように素肌に裃をつけているという珍味なもの。亀治郎と竹三郎が後ろを向いて笑っていたので千秋楽だけにお遊びだったかもしれない。
第二部の年始ご挨拶は亀治郎。すぐに出番があるので化粧し、カツラもつけての口上姿で本格的なもの。浅草歌舞伎に出演し観客に育てられた事の礼と若い世代への期待を述べて幕。
芝居は元々喜劇味のまさったものだけに、千秋楽だけなのかどうかは判断できなかった。仇討の場面で壱太郎や巳之助にバトンを渡したり、猿春に韓流スターのブロマイドを渡したりと好き放題だったが、普通の日でもやっていそう。
最後は型通りに『今月はこれぎり』となって一旦定式幕が閉まる。再び幕が開いて亀治郎が独り舞台に立って、1階席の上手から下手、2階席の下手から上手、さらに3階席の上手から下手へ視線を移して堂々たる座頭ぶりをみせて下手へ引っ込んだ。
それから幕切れに出演していた役者が一人一人登場して礼をして上手と下手へ別れて立つ。最後に亀治郎が登場かと思いきや、頭に三角の白い布をつけた亡者という心で亀治郎の元右衛門、亀鶴の伊織、男女蔵の弥助が登場。亀治郎は後ろ手に縛られているだが、亀鶴と男女蔵が出演者のサイン入の横断幕をサプライズで広げてみせた。
『亀治郎さん浅草歌舞伎14年間出演お疲れ様でした!市川猿之助ご襲名おめでとうございます』と書かれていた。一旦は浅草歌舞伎は卒業と宣言していた亀治郎も浅草に戻ってきますと宣言したようなしない様な。大きな歓声に包まれて良く聞こえませんでした。熱心なファンの多くはスタンディングオベーションをしていたようです。緞帳が降りてきて終演となり案外大人しい終わりかたでした。
まず、第一部の年始ご挨拶は愛之助。素顔に紋付羽織袴で型通りの口上。マイクに持ち替えて拍手の練習やら質問コーナーなどあって携帯電話の電源を切るマナーのネタで笑わせて、再び口上となって幕。質問コーナーでは、伊左衞門はやりたくない役と以前は新聞のインタビューで語っていたのに何故、今回演じる事になったのかという質問。答えは今やらないと死ぬまでできないからとかなんとか。少々苦しいこたえだったかも。
さて、『南総里見八犬伝』は千秋楽に初めて観た芝居なので、どこが通常の上演と違うのかは分からないのだが、明らかに千秋楽のソソリと思われる部分があった。天使が一番セクシーと感じる演劇評論家・渡辺保先生のWeb上では、男女蔵二役の代官は意外に可笑しみが薄いと書かれていた。それを知ってか知らずか、千秋楽の彼の扮装は、バカ殿メイクに『江戸の夕映』で演じた粉ひき男のように素肌に裃をつけているという珍味なもの。亀治郎と竹三郎が後ろを向いて笑っていたので千秋楽だけにお遊びだったかもしれない。
第二部の年始ご挨拶は亀治郎。すぐに出番があるので化粧し、カツラもつけての口上姿で本格的なもの。浅草歌舞伎に出演し観客に育てられた事の礼と若い世代への期待を述べて幕。
芝居は元々喜劇味のまさったものだけに、千秋楽だけなのかどうかは判断できなかった。仇討の場面で壱太郎や巳之助にバトンを渡したり、猿春に韓流スターのブロマイドを渡したりと好き放題だったが、普通の日でもやっていそう。
最後は型通りに『今月はこれぎり』となって一旦定式幕が閉まる。再び幕が開いて亀治郎が独り舞台に立って、1階席の上手から下手、2階席の下手から上手、さらに3階席の上手から下手へ視線を移して堂々たる座頭ぶりをみせて下手へ引っ込んだ。
それから幕切れに出演していた役者が一人一人登場して礼をして上手と下手へ別れて立つ。最後に亀治郎が登場かと思いきや、頭に三角の白い布をつけた亡者という心で亀治郎の元右衛門、亀鶴の伊織、男女蔵の弥助が登場。亀治郎は後ろ手に縛られているだが、亀鶴と男女蔵が出演者のサイン入の横断幕をサプライズで広げてみせた。
『亀治郎さん浅草歌舞伎14年間出演お疲れ様でした!市川猿之助ご襲名おめでとうございます』と書かれていた。一旦は浅草歌舞伎は卒業と宣言していた亀治郎も浅草に戻ってきますと宣言したようなしない様な。大きな歓声に包まれて良く聞こえませんでした。熱心なファンの多くはスタンディングオベーションをしていたようです。緞帳が降りてきて終演となり案外大人しい終わりかたでした。
ラ・ボエーム 新国立劇場 1月24日 [オペラ]
平日15時開演のオペラ公演だというのに、1階席の左右に空席が目立ったもののなかなかの入り。現役の世代は仕事の真っ最中なので、観客には高齢者が目立っていた。それもハゲ頭とか杖をついた老紳士など男性客が多かったように思う。オペラにでかけると必ず見かける人がいるもので、最前列に陣取る有名人?でなくとも見知った顔の人は多い。大抵は年季の入ったオペラファンなのだが、だんだんと歳をとっていくのいがわかるのが悲しくもあり、自分もああなりたいとおこがれたりする。
そんなオペラファンが必ず観ているのは、NHKイタリア・オペラだったり、ウィーン国立歌劇場、ミラノスカラ座の来日公演なのだと思う。オペラは国内の団体の公演を除けば、海外からやって来る豪華キャストの一流の公演を楽しむものだったのだ。
天使も初めて観た『ラ・ボエーム』は、カルロスクライバーが指揮するミラノスカラ座の公演だった。もちろんミミはミレッラ・フレーニである。四半世紀以上前なのにチケットの値段は星がついたレストランで食事ができるくらいの高額なものだった。星のついたレストランで毎日食事をしないように、オペラを観ることは年に一度の贅沢のようなものだったのだ。
新国立劇場ができて、オペラが一部の人に限られてはいても、かつてのような特別なイベントではなくなった。日常食ではないが、飛び切りのご馳走でもない、そんな上演が続いてのいるように思う。
劇場付きのオーケストラはないけれど、ほぼレギュラー化したオーケストラがいるので普段はオペラを演奏しない団体であっても、経験を重ねてきているのは確かのようである。コスト的に専属のオーケストラを持つことは今後も難しいとは思うが、新国立劇場ができたことは決して日本のオーケストラにとっては無駄ではなかったと、今日の演奏を聴いていて思ったからである。
プッチーニの作品ということもあるのか、ハッとさせられるような新鮮な響きを感じさせるような場面が何度もあって、その表現力の深さに感じいった。確かに、この世に存在する最も美しい音楽といった超一流、生涯の宝となる音楽というわけではないけれど、十分に満足できるレベルだったと思う。
それは歌手も同じで、知名度は高くないけれど手堅く歌ってくれる歌手たちだった。第一幕はまだエンジンがかからないのか低調なスタートだったものの、終わってみれば大きな穴もなく満足できる内容だったように思う。しかし、感動はあっても有名歌手を聞いた時のような高揚感はない。もっともレパートリー上演という位置づけの公演だったらしいので、これはこれで当初の目的を達成しているということなのだろう。
演出は粟國淳のものが今回も続演。プログラムにゼッフィレッリの同作品の演出にふれて、迷いがふっきれたようなことが書かれていた。昨年もMETの来日公演で披露されたが、舞台上に何百人も登場させるような人海戦術の演出ではないが、第二幕も舞台袖の舞台装置を人力で動かしていくという素朴な
アイディアながら、少ない人数でも最大限の効果をあげていたし、とかく埋没してしまいがちな主人公たちを浮かび上がらせて上手い。
もっとも第三幕は単調な演出すぎて細かなニュアンスなど一切伝わってこなくて退屈。もう少し工夫できなかったものかと残念に思った。第四幕は誰が演じても涙にくれる場面だが、その前に三越劇場の『東京物語』でさんざん泣かされて涙が枯れたのか案外冷静だったのが自分でも意外だった。『東京物語』が家族がテーマだったので、そういえばボヘミアン達の家族はどうなっていうるんだろう?とちょと気になった。全員が天涯孤独な人々でもなさそうだが、そんなところをサラッとみせてくれるような演出家がいたら凄いだろうになどと思ったりした。終演は18時前で、すでに暗くなっていた。これから夕食というにはピッタリの終演時間だった。高齢者でも無理なく帰れる時間なのだが、ラッシュに重なってしまうのは困るかも。11時とか12時開演がお年寄りには親切なのだけれど、演奏者には厳しい。なかなか難しい問題ではある。
2012年1月24日(火) 15時開演 新国立劇場
ミミ ヴェロニカ・カンジジェミ
ロドルフォ ジミン・パク
マルチェッロ アリス・アルギリス
ムゼッタ アレクサンドラ・ルブチャンスキー
ショナール 萩原潤
コッリーネ 妻屋秀和
ベノア 鹿野由之
アルチンドロ 晴雅彦
パルピニョール 糸賀修平
指揮 コンスタンティン・トリンクス
演出 粟國淳
演奏 東京交響楽団
合唱 新国立劇場合唱団
児童合唱 TOKYO FM少年合唱団
第1幕・第2幕
15:00〜16:00
幕間 25分
第3幕
16:25〜16:50
幕間 20分
第4幕
17:10〜17:40
そんなオペラファンが必ず観ているのは、NHKイタリア・オペラだったり、ウィーン国立歌劇場、ミラノスカラ座の来日公演なのだと思う。オペラは国内の団体の公演を除けば、海外からやって来る豪華キャストの一流の公演を楽しむものだったのだ。
天使も初めて観た『ラ・ボエーム』は、カルロスクライバーが指揮するミラノスカラ座の公演だった。もちろんミミはミレッラ・フレーニである。四半世紀以上前なのにチケットの値段は星がついたレストランで食事ができるくらいの高額なものだった。星のついたレストランで毎日食事をしないように、オペラを観ることは年に一度の贅沢のようなものだったのだ。
新国立劇場ができて、オペラが一部の人に限られてはいても、かつてのような特別なイベントではなくなった。日常食ではないが、飛び切りのご馳走でもない、そんな上演が続いてのいるように思う。
劇場付きのオーケストラはないけれど、ほぼレギュラー化したオーケストラがいるので普段はオペラを演奏しない団体であっても、経験を重ねてきているのは確かのようである。コスト的に専属のオーケストラを持つことは今後も難しいとは思うが、新国立劇場ができたことは決して日本のオーケストラにとっては無駄ではなかったと、今日の演奏を聴いていて思ったからである。
プッチーニの作品ということもあるのか、ハッとさせられるような新鮮な響きを感じさせるような場面が何度もあって、その表現力の深さに感じいった。確かに、この世に存在する最も美しい音楽といった超一流、生涯の宝となる音楽というわけではないけれど、十分に満足できるレベルだったと思う。
それは歌手も同じで、知名度は高くないけれど手堅く歌ってくれる歌手たちだった。第一幕はまだエンジンがかからないのか低調なスタートだったものの、終わってみれば大きな穴もなく満足できる内容だったように思う。しかし、感動はあっても有名歌手を聞いた時のような高揚感はない。もっともレパートリー上演という位置づけの公演だったらしいので、これはこれで当初の目的を達成しているということなのだろう。
演出は粟國淳のものが今回も続演。プログラムにゼッフィレッリの同作品の演出にふれて、迷いがふっきれたようなことが書かれていた。昨年もMETの来日公演で披露されたが、舞台上に何百人も登場させるような人海戦術の演出ではないが、第二幕も舞台袖の舞台装置を人力で動かしていくという素朴な
アイディアながら、少ない人数でも最大限の効果をあげていたし、とかく埋没してしまいがちな主人公たちを浮かび上がらせて上手い。
もっとも第三幕は単調な演出すぎて細かなニュアンスなど一切伝わってこなくて退屈。もう少し工夫できなかったものかと残念に思った。第四幕は誰が演じても涙にくれる場面だが、その前に三越劇場の『東京物語』でさんざん泣かされて涙が枯れたのか案外冷静だったのが自分でも意外だった。『東京物語』が家族がテーマだったので、そういえばボヘミアン達の家族はどうなっていうるんだろう?とちょと気になった。全員が天涯孤独な人々でもなさそうだが、そんなところをサラッとみせてくれるような演出家がいたら凄いだろうになどと思ったりした。終演は18時前で、すでに暗くなっていた。これから夕食というにはピッタリの終演時間だった。高齢者でも無理なく帰れる時間なのだが、ラッシュに重なってしまうのは困るかも。11時とか12時開演がお年寄りには親切なのだけれど、演奏者には厳しい。なかなか難しい問題ではある。
2012年1月24日(火) 15時開演 新国立劇場
ミミ ヴェロニカ・カンジジェミ
ロドルフォ ジミン・パク
マルチェッロ アリス・アルギリス
ムゼッタ アレクサンドラ・ルブチャンスキー
ショナール 萩原潤
コッリーネ 妻屋秀和
ベノア 鹿野由之
アルチンドロ 晴雅彦
パルピニョール 糸賀修平
指揮 コンスタンティン・トリンクス
演出 粟國淳
演奏 東京交響楽団
合唱 新国立劇場合唱団
児童合唱 TOKYO FM少年合唱団
第1幕・第2幕
15:00〜16:00
幕間 25分
第3幕
16:25〜16:50
幕間 20分
第4幕
17:10〜17:40
東京物語・千秋楽 初春新派公演 三越劇場 [演劇]

かつては新橋演舞場でお正月公演の幕を開けたこともあったのに、今では三越劇場の小さな客席でさえ満席にできなくなってしまった劇団新派。6月にも三越劇場で「華岡青州の妻」が予定されているらしいがどうなることやら。東宝の芸術座がなくなってしまい、シアター・クリエがミュージカルや新しい演劇に力を入れている現状では、中高年の女性が安心して足を運べる芝居は新派だけになってしまったのだが、新派独自の演目ではなく山田洋次監督による小津安二郎の名作映画の舞台化とい新しい路線と、杉村春子の文学座での財産演目の継承という方針になったようである。
今日は新国立劇場で「ラ・ボエーム」のマチネ公演を観る予定だったのだが、開演が15時からだったので三越劇場で『東京物語』を観ることにした。直前の購入だったのに3列目の席を入手。舞台設営のため最前列が撤去されていたので実質は2列目のセンターブロックという良席だった。喜んでいいのか悲しんでいいのか。先月お会いした憧れのT氏のおすすめがなければ、たぶん観なかったと思うのだが、名作映画の安直な舞台化ではなく、かつて味わったことのないような感動に包まれて幸福な時間を過ごすことができた。客席は7割程度しか入っていなかったけれど、この舞台成果を前にしては「観に来なかった観客が悪い」と言い切ってしまいたい。本当に素晴らしかった。
三越劇場はデパートの6階と7階にある小劇場である。伝統ある百貨店らしくクラシックな内装は格調ある雰囲気なのだが、舞台設備は制約がありすぎて芝居を上演するには不利な条件が揃いすぎている。舞台の高さはないし、舞台上部にはスペースがないので吊り物を上下させての舞台転換など不可能である。奥行も小学校の体育館並だし、舞台袖にいたってはそれよりも狭いくらいで、どうして芝居が上演できるのか不思議である。
映画『東京物語』では尾道、東京、熱海と舞台が移動するが、さすがに三越劇場での再現は無理。そこで映画では荒川区だった長男の医院を葛飾区の金町に舞台を移し、すべての出来事がその場所で起こったり、語られたりするように変更されていた。
舞台前は拡張され張り出し舞台が作られ、緞帳ラインのギリギリまで舞台装置が飾られていた。中央が医院の家族が揃う居間。奥の背景には江戸川の土手?が見えている。映画『男はつらいよ』の舞台となった柴又とは目と鼻の先にあるという設定が山田洋次監督らしい工夫で、常磐線を走る蒸気機関車の汽笛などが聞こえてきて、現代の観客が東日本大震災に思いを巡らすといううまい仕掛け。次男の嫁の出身地が「石巻」というのも効果的だった。
その居間の下手奥には炊事場、手前に玄関。狭い路地を挟んで氷屋の店先。その奥が駅に続く道らしい。上手には医院の小さな玄関。その奥に二階につながる階段と、さらに奥には診察室へのドアがある。なんだか映画のセットのようjなリアリズムの舞台装置だった。わずかに柱にかけられた柱時計の振り子は動き続けるが針は外されているのと、柱の鏡が曇っていて反射を抑えているのが芝居らしい。看板、家具、縁の下のクモの巣まで時代考証が行き届いていた。
細部の違いはあっても、ほぼ映画通りの物語が展開していくのだが、なんといっても見事なのは昭和28年の空気を役者全員が醸し出していたこと。言葉は明瞭でゆっくりで聞き取りやすく品がある美しい日本語の台詞。ゆったりとした時間が舞台を支配していて心地よかった。冒頭に流れるのは映画と同じ音楽で、もうその頃から目がウルウル。胸は締め付けられるようで苦しく切ない状態が最後まで続いた。時々挟まれる笑いのツボも山田監督らしく、泣き笑いの連続で良質な芝居を観た満足感で満たされた。
八重子の母親、久里子の美容院を経営している計算高い娘も芝居が上手い、上手い。そして何よりも父親を演じた安井昌二がなんといっても素晴らしかった。三越劇場では宇野重吉、滝沢修、同系列の三越ロイヤルシアターでは、島田正吾の「霧の音」などを観ているが、その名優たちに勝るとも劣らない入魂の演技で見ごたえがあった。もう高齢のはずだが、白髪もヒゲも隠そうとせずに自然体の演技。謹厳実直というだけではなく、旧友たちと酒に酔って深夜に帰宅するといった困った?面も見せるのが、いかにも血の通った人間らしい表現で納得。その付け馬として日暮里の小料理屋?からついて来たのが英太郎の女将。終幕では父親と母親の死を間違え、早合点して喪服で香典を持って駆けつけ笑わせる美味しい役を楽し気に演じていた。
大人になった実の子供たちは、はるばる訪ねてきた年老いた両親を持て余し、両親たちは東京の場末の下町で小さな町医者と美容院を経営していることに落胆を隠さなかったりする。戦死した二男の嫁だけが両親に優しいのだが、それも両親を労わる心というよりも、亡くなった夫を愛し続けることの延長のようにも思え、それぞれの思いがすれ違うのが切なくて何度も泣かされた。もっとも自分の思う通りでなくとも、犯罪を犯したわけではないからいいのではないかなあなどと思ったりもした。
千秋楽ということもあってカーテンコールには山田洋次監督が八重子に呼ばれて登場。子役二人から小さな花束が送られて山田監督が挨拶。山田監督50周年記念の公演らしいが、東日本大震災で延期になった映画『東京家族』も大いに期待しても良いのではないだろうか。収容人数が少ないので均一料金なのは仕方がないが、もう一ランク安い席があれば、もっと多くの芝居好きに見てもらえたと思うが、空席が目立ったのは残念である。山田監督も安井昌二も高齢なだけに、今後も観る機会があるのかどうか。もし再演されたら是非ご覧になるようおすすめしたいです。
小津安二郎・野田高梧『東京物語』より
山田洋次 脚本・演出
出 演
平山とみ 水谷八重子(東山千栄子)
平山周吉 安井昌二(笠智衆)
平山紀子 瀬戸摩純(原節子)
平山幸一 田口 守(山村聡)
平山文子 石原舞子(三宅邦子)
飲み屋の女将・加代 英 太郎(櫻むつ子)
平山敬三 井上恭太(大坂志郎)
金子庫造 児玉真二(中村伸郎)
金子志げ 波乃久里子(杉村春子)
平山京子(舞台版では登場なし)香川京子
上演時間
第一幕 11:00〜11:55
一 両親の上京
二 夕食後の団欒
三 日曜日
四 雨の昼下がり
五 翌日の夜
幕間 25分
第二幕 12:20〜13:30
六 翌々日の午後
七 夜更け
八 翌日の午後
九 その夜
十 旅の終わり
せっかくなので映画のDVDを買おうかなと思ってアマゾンをみたら廉価版が出ていてびっくり。
正規版?は、たぶんこっちかな?
お年賀口上 道行恋苧環 三笠山御殿 ル テアトル銀座 坂東玉三郎特別公演 尾上松緑出演 [歌舞伎]
歌舞伎は適材適所で
昨年末に劇場でよくお会いする老紳士T氏とお話する機会があった。たまたま「ル テアトル銀座 坂東玉三郎特別公演」の前売りの直後だったために、チケット入手の苦労話に花が咲いた。今回は1等席17,000円、2等席12,000円、3等席5,000円のランクだったものの、3等席は最後列の1列しかないので入手困難だったという話題になる。
T氏は奇跡的に3等席を手に入れることができたらしいいが、天使は発売開始と同時にアクセスできたのに3等席はすでに売り切れていて、結局1等席を買うことになってしまった。いくら玉三郎が出演する舞踊公演以外の歌舞伎出演だとはいえ、あまりに高額な値段のような気がした。わずかな廉価席は言い訳のような気がしてならないのだが困ったものである。これでは歌舞伎ファンの底辺が広がらない。新橋演舞場には幕見席もなく、安く歌舞伎を見ようとする観客は排除されている格好だ。金はなくとも並ぶことに苦痛を感じないような観客が歌舞伎を支えているということを忘れてはならない。海外のオペラ劇場の天井桟敷には、そうした聴衆が少なからずいてオペラを支えているのである。まったく観客を育てようとしない松竹の了見がわからない。玉三郎自身にも大いに反省してもらいたい。チケットの値段設定とあまりに入手困難なために観劇を諦めた人が少なからずいるのである。
しかもイープラスの得チケでは、S席17000円が12000円にA席12000円が8000円という大幅ディスカウントで売りに出されている。昨年は海老蔵事件の影響もあって、アッという間に売り切れたけれど今回は苦戦しているようである。値引きで売りさばこうとするならば、最初から安い値段で出せばよかったのに。興行は水物とはあいうものの釈然としない思いが残った。
劇場へ入ると昨年同様にロビーには口上姿の玉三郎の巨大なパネルが観客を出迎える。紅白の繭玉の装飾も昨年のままだし、開演前の獅子舞も健在だった。違ったのは最後に獅子が垂らす布に「福幸支援」と書かれたいたことだろうか。
まずは開幕前に「お年賀口上」と題された一幕。昨年は「阿古屋」と「女伊達」で、「女伊達」に口上があったが、さすがに今年の演目では劇中口上が困難とのことで、今年は開幕前の「口上」となった模様。震災のこと、この劇場の思い出や上演した演目のこと、二代目松緑に可愛がられたこと、当代の松緑と共演するについて、快く菊五郎が了承してくれたことの感謝、年末は菊之助の「雪姫」、七之助の「お染の七役」の指導と大忙しだったこと、かけがえのない大先輩が相次いで亡くなったこと、など流暢ではなかったけれど、心をこめた言葉の数々に大いに感心させられ温かい心持になった。残念だったのは、玉三郎=美しいという図式が成立しづらくなんていることだった。顔のひょうじょうは誤魔化せても、首筋に出てくる老人特有の皺は隠しようもない。「ああ、玉三郎の容姿も衰えることがあるのかと」、人間なら当たり前のことなのに、なかなか受け入れることができなかった。
「道行恋苧環」は玉三郎のお三輪、尾上右近の橘姫、求女の笑三郎という配役。若手中堅に活躍の場を与えるという考え方はわからないではないが、玉三郎の相手役としてはいずれも物足りなく満足感はない。大きな一座であれば、それなりの格のある役者に出てもらうことも可能だったろうが、意識的なのか大一座の中に入っての興行、頑なに新橋演舞場へ出演しようとしない?あるいは出演させてもらえない?玉三郎の立場としては精一杯なのだということは理解できるが…。
かつて天性の舞踊の才能を感じさせた子役時代と違って右近の踊りは生硬で面白味がない。笑三郎に至っては迷いがあるようで輪郭のはっきりしない踊りで二人ともに精彩を欠いた。歌舞伎とは恐ろしいもので、そうした共演者の輝きの鈍さが玉三郎にも伝播したのか、元々派手な踊りでないだけに消化不良のまま終わってしまったように思う。次の「御殿」の場へ話をつなぐ役目しかなかったのは惜しいことだ。
初めてこの「御殿」の場を観たのは昭和53年の歌舞伎座の團菊祭での上演だった。歌右衛門のお三輪、白鸚の鱶七という大顔合わせで、あまりの面白さに何度も歌舞伎座の幕見席に通ったのを覚えている。それ故、今の松緑のお祖父さんの鱶七も観てはいるが、白鸚の大きさ面白さ、堂々たる舞台ぶりは遠く及ばないものだなあと思った。
今回は当代の松緑が初役で務める。今の若手花形を見回しても、今後この役を手がけそうな人が見当たらないだけに大いに期待した。顔も立派、大きな声で元気いっぱいなのだが、よかったのは最初の部分だけで、後半になるにつれ失速。荒事風の演技が続く部分になると「大きさ」「おおらかさ」といったものが失われていってしまって面白くない。まあ、早急に答えを求めるのではなく今後に期待するしかないようだ。
入鹿は猿弥が演じるが巨大な悪という感覚に乏しい。豆腐買いと替わるためか隈取も思ったより薄くて残念。初めての豆腐買いは、先代の勘三郎で大ご馳走の配役だったのだが、猿弥の豆腐買いも顔を見せただけで観客をわかせるような愛嬌があって良かった。橘姫の右近、求女の笑三郎が面白くないのは相変わらず。玉三郎が登場するまではひたすら我慢の芝居が続いた。まあ玉三郎のリサイタルのような公演なので仕方がないかもしれないが、芝居全体のバランスは著しく悪いと言わなければならなかった。
本行を研究したとかいう玉三郎独特の演出だった。歌右衛門は本行重視の原理主義者?の評論家に「おいら、人形じゃねえ」と言い放ったとかいう伝説があるらしいが、人間が人形のような動きができないように、人形も人間のような動きはできない。盲目的に人形通りに演じるのも愚かなことのように思う。実際は、歌舞伎独自の演出も残していたことだし、要は玉三郎自身が演じる上での好みのようなものなのだろう。
歌右衛門のお三輪で一番好きな部分は官女たちにいじめられるところ。普段は歌舞伎界に君臨する女帝?がいじめ抜かれるのだから二重の意味で面白かった。一番哀れで心をゆすぶったのは、気絶させられたお三輪の髪に島台をくくりつけ、お三輪が「今日、かかさんに結うてもろうたこの髪を、これこのように壊しくさって」と怒りに震える部分。哀れで、いかにも娘らしい台詞なのだが、歌舞伎独自の入れ事ということで今回もカット。
口汚い言葉や悪戯されたことの怒りが積み重なり、ついには男を取られ「疑着の相」を浮かべて怒りを爆発させるという過程を上手く表現する工夫だと思うが、そうした女性の精神構造をバッサリ切り捨てることができるところが玉三郎も所詮は男なのだなあと思う。
それでも丁寧な演技の積み重ねで、官女のかつぎあげられ花道の七三で気絶させられて、求女の祝言の声を聞いて嫉妬に燃えるという手順を納得させられる演技をみせてくれた。玉三郎も気持ち良いだろうし、玉三郎ファンも満足だとは思うのだが、前半の芝居の不調と差し引きすれば全体の完成度は低いままだった。鱶七が金輪五郎となってお三輪を殺し、お三輪の死が恋しい淡海の役に立つということがわかって満足して死を受け入れるという部分も松緑が弱いので盛り上がらずに終わってしまい物足りなかった。観客動員で苦戦したのも、賢明な観客はよく知っていたという結果だったのだと思う。価格に見合った適材適所の配役が望ましいのは言うまでもない。さて、来年も玉三郎はル テアトル銀座の舞台に立つのだろうか。今の自分の立場に見合った相手役との芝居を見せて欲しいと願うのは天使だけではないと思う。それとも新しい歌舞伎座完成まで、観客の飢餓感をあおるだけおある戦略なのか?新しい歌舞伎座の先行予約の特典を得られるポイントの達成まで、あと数ポイントになったが、新しい歌舞伎座に期待できるのかどうか大いに不安を抱いている。
一、お年賀口上
14:00〜14:10
幕間 10分
二、妹背山婦女庭訓
道行恋苧環
杉酒屋娘お三輪 坂東 玉三郎
入鹿妹橘姫 尾上 右 近
烏帽子折求女実は藤原淡海 市川 笑三郎
14:20〜14:50
幕間 25分
三笠山御殿
杉酒屋娘お三輪 坂東 玉三郎
烏帽子折求女実は藤原淡海 市川 笑三郎
入鹿妹橘姫 尾上 右 近
蘇我入鹿/豆腐買おむら 市川 猿 弥
漁師鱶七/実は金輪五郎今国 尾上 松 緑
15:15〜17:05
昨年末に劇場でよくお会いする老紳士T氏とお話する機会があった。たまたま「ル テアトル銀座 坂東玉三郎特別公演」の前売りの直後だったために、チケット入手の苦労話に花が咲いた。今回は1等席17,000円、2等席12,000円、3等席5,000円のランクだったものの、3等席は最後列の1列しかないので入手困難だったという話題になる。
T氏は奇跡的に3等席を手に入れることができたらしいいが、天使は発売開始と同時にアクセスできたのに3等席はすでに売り切れていて、結局1等席を買うことになってしまった。いくら玉三郎が出演する舞踊公演以外の歌舞伎出演だとはいえ、あまりに高額な値段のような気がした。わずかな廉価席は言い訳のような気がしてならないのだが困ったものである。これでは歌舞伎ファンの底辺が広がらない。新橋演舞場には幕見席もなく、安く歌舞伎を見ようとする観客は排除されている格好だ。金はなくとも並ぶことに苦痛を感じないような観客が歌舞伎を支えているということを忘れてはならない。海外のオペラ劇場の天井桟敷には、そうした聴衆が少なからずいてオペラを支えているのである。まったく観客を育てようとしない松竹の了見がわからない。玉三郎自身にも大いに反省してもらいたい。チケットの値段設定とあまりに入手困難なために観劇を諦めた人が少なからずいるのである。
しかもイープラスの得チケでは、S席17000円が12000円にA席12000円が8000円という大幅ディスカウントで売りに出されている。昨年は海老蔵事件の影響もあって、アッという間に売り切れたけれど今回は苦戦しているようである。値引きで売りさばこうとするならば、最初から安い値段で出せばよかったのに。興行は水物とはあいうものの釈然としない思いが残った。
劇場へ入ると昨年同様にロビーには口上姿の玉三郎の巨大なパネルが観客を出迎える。紅白の繭玉の装飾も昨年のままだし、開演前の獅子舞も健在だった。違ったのは最後に獅子が垂らす布に「福幸支援」と書かれたいたことだろうか。
まずは開幕前に「お年賀口上」と題された一幕。昨年は「阿古屋」と「女伊達」で、「女伊達」に口上があったが、さすがに今年の演目では劇中口上が困難とのことで、今年は開幕前の「口上」となった模様。震災のこと、この劇場の思い出や上演した演目のこと、二代目松緑に可愛がられたこと、当代の松緑と共演するについて、快く菊五郎が了承してくれたことの感謝、年末は菊之助の「雪姫」、七之助の「お染の七役」の指導と大忙しだったこと、かけがえのない大先輩が相次いで亡くなったこと、など流暢ではなかったけれど、心をこめた言葉の数々に大いに感心させられ温かい心持になった。残念だったのは、玉三郎=美しいという図式が成立しづらくなんていることだった。顔のひょうじょうは誤魔化せても、首筋に出てくる老人特有の皺は隠しようもない。「ああ、玉三郎の容姿も衰えることがあるのかと」、人間なら当たり前のことなのに、なかなか受け入れることができなかった。
「道行恋苧環」は玉三郎のお三輪、尾上右近の橘姫、求女の笑三郎という配役。若手中堅に活躍の場を与えるという考え方はわからないではないが、玉三郎の相手役としてはいずれも物足りなく満足感はない。大きな一座であれば、それなりの格のある役者に出てもらうことも可能だったろうが、意識的なのか大一座の中に入っての興行、頑なに新橋演舞場へ出演しようとしない?あるいは出演させてもらえない?玉三郎の立場としては精一杯なのだということは理解できるが…。
かつて天性の舞踊の才能を感じさせた子役時代と違って右近の踊りは生硬で面白味がない。笑三郎に至っては迷いがあるようで輪郭のはっきりしない踊りで二人ともに精彩を欠いた。歌舞伎とは恐ろしいもので、そうした共演者の輝きの鈍さが玉三郎にも伝播したのか、元々派手な踊りでないだけに消化不良のまま終わってしまったように思う。次の「御殿」の場へ話をつなぐ役目しかなかったのは惜しいことだ。
初めてこの「御殿」の場を観たのは昭和53年の歌舞伎座の團菊祭での上演だった。歌右衛門のお三輪、白鸚の鱶七という大顔合わせで、あまりの面白さに何度も歌舞伎座の幕見席に通ったのを覚えている。それ故、今の松緑のお祖父さんの鱶七も観てはいるが、白鸚の大きさ面白さ、堂々たる舞台ぶりは遠く及ばないものだなあと思った。
今回は当代の松緑が初役で務める。今の若手花形を見回しても、今後この役を手がけそうな人が見当たらないだけに大いに期待した。顔も立派、大きな声で元気いっぱいなのだが、よかったのは最初の部分だけで、後半になるにつれ失速。荒事風の演技が続く部分になると「大きさ」「おおらかさ」といったものが失われていってしまって面白くない。まあ、早急に答えを求めるのではなく今後に期待するしかないようだ。
入鹿は猿弥が演じるが巨大な悪という感覚に乏しい。豆腐買いと替わるためか隈取も思ったより薄くて残念。初めての豆腐買いは、先代の勘三郎で大ご馳走の配役だったのだが、猿弥の豆腐買いも顔を見せただけで観客をわかせるような愛嬌があって良かった。橘姫の右近、求女の笑三郎が面白くないのは相変わらず。玉三郎が登場するまではひたすら我慢の芝居が続いた。まあ玉三郎のリサイタルのような公演なので仕方がないかもしれないが、芝居全体のバランスは著しく悪いと言わなければならなかった。
本行を研究したとかいう玉三郎独特の演出だった。歌右衛門は本行重視の原理主義者?の評論家に「おいら、人形じゃねえ」と言い放ったとかいう伝説があるらしいが、人間が人形のような動きができないように、人形も人間のような動きはできない。盲目的に人形通りに演じるのも愚かなことのように思う。実際は、歌舞伎独自の演出も残していたことだし、要は玉三郎自身が演じる上での好みのようなものなのだろう。
歌右衛門のお三輪で一番好きな部分は官女たちにいじめられるところ。普段は歌舞伎界に君臨する女帝?がいじめ抜かれるのだから二重の意味で面白かった。一番哀れで心をゆすぶったのは、気絶させられたお三輪の髪に島台をくくりつけ、お三輪が「今日、かかさんに結うてもろうたこの髪を、これこのように壊しくさって」と怒りに震える部分。哀れで、いかにも娘らしい台詞なのだが、歌舞伎独自の入れ事ということで今回もカット。
口汚い言葉や悪戯されたことの怒りが積み重なり、ついには男を取られ「疑着の相」を浮かべて怒りを爆発させるという過程を上手く表現する工夫だと思うが、そうした女性の精神構造をバッサリ切り捨てることができるところが玉三郎も所詮は男なのだなあと思う。
それでも丁寧な演技の積み重ねで、官女のかつぎあげられ花道の七三で気絶させられて、求女の祝言の声を聞いて嫉妬に燃えるという手順を納得させられる演技をみせてくれた。玉三郎も気持ち良いだろうし、玉三郎ファンも満足だとは思うのだが、前半の芝居の不調と差し引きすれば全体の完成度は低いままだった。鱶七が金輪五郎となってお三輪を殺し、お三輪の死が恋しい淡海の役に立つということがわかって満足して死を受け入れるという部分も松緑が弱いので盛り上がらずに終わってしまい物足りなかった。観客動員で苦戦したのも、賢明な観客はよく知っていたという結果だったのだと思う。価格に見合った適材適所の配役が望ましいのは言うまでもない。さて、来年も玉三郎はル テアトル銀座の舞台に立つのだろうか。今の自分の立場に見合った相手役との芝居を見せて欲しいと願うのは天使だけではないと思う。それとも新しい歌舞伎座完成まで、観客の飢餓感をあおるだけおある戦略なのか?新しい歌舞伎座の先行予約の特典を得られるポイントの達成まで、あと数ポイントになったが、新しい歌舞伎座に期待できるのかどうか大いに不安を抱いている。
一、お年賀口上
14:00〜14:10
幕間 10分
二、妹背山婦女庭訓
道行恋苧環
杉酒屋娘お三輪 坂東 玉三郎
入鹿妹橘姫 尾上 右 近
烏帽子折求女実は藤原淡海 市川 笑三郎
14:20〜14:50
幕間 25分
三笠山御殿
杉酒屋娘お三輪 坂東 玉三郎
烏帽子折求女実は藤原淡海 市川 笑三郎
入鹿妹橘姫 尾上 右 近
蘇我入鹿/豆腐買おむら 市川 猿 弥
漁師鱶七/実は金輪五郎今国 尾上 松 緑
15:15〜17:05
下谷万年町物語 [演劇]
今のパルコ劇場、かつての西武劇場での初演を観ている。1981年2月9日から3月8日にかけての上演だったというから31年も前のことになる。オシャレな公園通りにあるファッションビルの9階にある西武劇場に初めて足を踏み入れたのは安部公房スタジオの公演だったと思う。文学座、民芸、劇団四季といった老舗劇団や福田陽一郎によりニールサイモンの芝居や木の実ナナと細川俊之の「ショーガール」などアバンギャルドな実験演劇からコメディまで、ちょっとお洒落な演劇を観る場所だった。
そこへ紅テントで芝居を打っていた唐十郎と商業演劇の演出家として大劇場へ進出してヒット作を生み出していた蜷川幸雄が殴り込みをかけたような形で公演があったのである。ファッションビルの1階正面には長屋風の小屋が建てられ物干しにはおしめが風に揺られていたように思う。それも驚きなのだが、ロビーに入るとおよそ美しくないオカマの集団が行ったり来たりしていて二度驚いたものだった。その数およそ100名。客席と舞台の間には浅草の瓢箪池?が作られ役者が何度も水しぶきを上げて飛び込んだりした。オカマ、男娼といった存在はオネエ系タレントがメディアに進出しているような現代と違って当時はタブーだったからショックも大きかった。今回はそういった意味での衝撃度はほとんどゼロに等しかったのは仕方がないか。
今回、藤原竜也の演じた青年を渡辺謙が演じ、宮沢りえの演じたキティ・瓢田を李礼仙が演じたのと、オカマの親分・お市を文学座の亡くなった怪優・塩島昭彦が演じたのを覚えている。その後に上演された「黒いチューリップ」と混同してしまって物語の細部は少しも覚えていないのだが、警視総監の帽子の事件のことと、オカマ達が歌う「下谷万年町」のメロディだけはいつまでも忘れなかった。何しろ30年前の上野不忍池の周辺には、女装したオカマが、まだ出没していたからである。
さて今回の上演。舞台装置の朝倉摂、照明の吉井澄男が健在なのは何より。オカマの人数で驚かすという方法ではなく、主役三人の芝居があくまで主体という当たり前の芝居づくりだった。宮沢りえは身体を張った熱演で主役をこなし、藤原竜也と少年を演じた西島隆弘が上手い。本当に芝居の神様が乗り移ったかのような神がかり的な演技だった。芝居自体は唐十郎の独特の世界観で書かれていて、31年前にも相変わらずこんな世界を彼は引きづっているのだなあと思ったが、それも今は変わらないようではっきりいって古臭いし気恥しくも思う。野田秀樹っぽいところもアチラコチラに。
だから物語の筋を追うよりも、役になりきった宮沢なり、藤原なり、西島の演技を大いに楽しめば満足できるし、最後には何故かこみ上げてくるものがあって胸が熱くなった。でも、それは戯曲の力というよりも役者の魅力の方が勝っていたのだと思う。本水があって、猥雑な登場人物がいて、大して上手くないけれど味のある歌を歌い上げる…、なんて懐かしいアングラ的世界にちょっと感傷に浸ったりもした。
客席の後ろには演出家の蜷川幸雄がずっと陣取っていた。眼光鋭いオシャレな着こなしの老人になっていたけれど、結構芝居の出来には満足だったようで、カーテンコールで舞台に向かって手を振っていたのが印象的だった。最近は彼の演出する作品を見る機会もなかったが、もう一度追いかけてもいいかもと思った。
ところでシアターコクーンはリニューアルオープンらしいが、トイレが綺麗になったぐらいであまり変わらないような印象が…。最近読んだ本に上野の警視総監を殴ったことが書いてあった。
67ページにその記述が。興味のある方は是非お読みください。その他のエピソードも歌舞伎好きにはたまらない話ばかりです。
チケットは当日券はあれば本席、なくとも中2階と2階の立ち見席が売り出されているようです。
【あらすじ】
昭和23年。上野と鴬谷の真ん中に位置する<下谷万年町>。住みついた男娼たちでにぎわい、電蓄から鳴るタンゴの曲で、ハエの飛び交う八軒長屋造りの町。上野を視察していた警視総監の帽子が盗まれる。犯人は不忍池の雷魚と呼ばれるオカマのお春率いる一味らしく、お春のイロだった青年・洋一【藤原竜也】が帽子を持って逃げている。それを追う破目になったのは、洋一と同じ6本目の指を持つ不思議な少年・文ちゃん【西島隆弘】。洋一と文ちゃんが出会った時、瓢箪池の底から男装の麗人、キティ・瓢田【宮沢りえ】が現れる。彼女は戦争中にはぐれた演出家の恋人(もう一人の洋一)を探していた。キティは、洋一、文ちゃんと共にレヴュー小屋「サフラン座」の旗揚げを決意する。それぞれの物語は、瓢箪池の中で時空を越えて交錯し、思わぬ結末に向かっていく―!!
作:唐十郎
演出:蜷川幸雄
出演:
キティ・瓢田 宮沢りえ
青年(洋一) 藤原竜也
少年(文ちゃん) 西島隆弘
第一幕 18:30〜19:15
休憩20分
第二幕 19:35〜20:45
休憩10分
第三幕 20:55〜22:00
そこへ紅テントで芝居を打っていた唐十郎と商業演劇の演出家として大劇場へ進出してヒット作を生み出していた蜷川幸雄が殴り込みをかけたような形で公演があったのである。ファッションビルの1階正面には長屋風の小屋が建てられ物干しにはおしめが風に揺られていたように思う。それも驚きなのだが、ロビーに入るとおよそ美しくないオカマの集団が行ったり来たりしていて二度驚いたものだった。その数およそ100名。客席と舞台の間には浅草の瓢箪池?が作られ役者が何度も水しぶきを上げて飛び込んだりした。オカマ、男娼といった存在はオネエ系タレントがメディアに進出しているような現代と違って当時はタブーだったからショックも大きかった。今回はそういった意味での衝撃度はほとんどゼロに等しかったのは仕方がないか。
今回、藤原竜也の演じた青年を渡辺謙が演じ、宮沢りえの演じたキティ・瓢田を李礼仙が演じたのと、オカマの親分・お市を文学座の亡くなった怪優・塩島昭彦が演じたのを覚えている。その後に上演された「黒いチューリップ」と混同してしまって物語の細部は少しも覚えていないのだが、警視総監の帽子の事件のことと、オカマ達が歌う「下谷万年町」のメロディだけはいつまでも忘れなかった。何しろ30年前の上野不忍池の周辺には、女装したオカマが、まだ出没していたからである。
さて今回の上演。舞台装置の朝倉摂、照明の吉井澄男が健在なのは何より。オカマの人数で驚かすという方法ではなく、主役三人の芝居があくまで主体という当たり前の芝居づくりだった。宮沢りえは身体を張った熱演で主役をこなし、藤原竜也と少年を演じた西島隆弘が上手い。本当に芝居の神様が乗り移ったかのような神がかり的な演技だった。芝居自体は唐十郎の独特の世界観で書かれていて、31年前にも相変わらずこんな世界を彼は引きづっているのだなあと思ったが、それも今は変わらないようではっきりいって古臭いし気恥しくも思う。野田秀樹っぽいところもアチラコチラに。
だから物語の筋を追うよりも、役になりきった宮沢なり、藤原なり、西島の演技を大いに楽しめば満足できるし、最後には何故かこみ上げてくるものがあって胸が熱くなった。でも、それは戯曲の力というよりも役者の魅力の方が勝っていたのだと思う。本水があって、猥雑な登場人物がいて、大して上手くないけれど味のある歌を歌い上げる…、なんて懐かしいアングラ的世界にちょっと感傷に浸ったりもした。
客席の後ろには演出家の蜷川幸雄がずっと陣取っていた。眼光鋭いオシャレな着こなしの老人になっていたけれど、結構芝居の出来には満足だったようで、カーテンコールで舞台に向かって手を振っていたのが印象的だった。最近は彼の演出する作品を見る機会もなかったが、もう一度追いかけてもいいかもと思った。
ところでシアターコクーンはリニューアルオープンらしいが、トイレが綺麗になったぐらいであまり変わらないような印象が…。最近読んだ本に上野の警視総監を殴ったことが書いてあった。
67ページにその記述が。興味のある方は是非お読みください。その他のエピソードも歌舞伎好きにはたまらない話ばかりです。
チケットは当日券はあれば本席、なくとも中2階と2階の立ち見席が売り出されているようです。
【あらすじ】
昭和23年。上野と鴬谷の真ん中に位置する<下谷万年町>。住みついた男娼たちでにぎわい、電蓄から鳴るタンゴの曲で、ハエの飛び交う八軒長屋造りの町。上野を視察していた警視総監の帽子が盗まれる。犯人は不忍池の雷魚と呼ばれるオカマのお春率いる一味らしく、お春のイロだった青年・洋一【藤原竜也】が帽子を持って逃げている。それを追う破目になったのは、洋一と同じ6本目の指を持つ不思議な少年・文ちゃん【西島隆弘】。洋一と文ちゃんが出会った時、瓢箪池の底から男装の麗人、キティ・瓢田【宮沢りえ】が現れる。彼女は戦争中にはぐれた演出家の恋人(もう一人の洋一)を探していた。キティは、洋一、文ちゃんと共にレヴュー小屋「サフラン座」の旗揚げを決意する。それぞれの物語は、瓢箪池の中で時空を越えて交錯し、思わぬ結末に向かっていく―!!
作:唐十郎
演出:蜷川幸雄
出演:
キティ・瓢田 宮沢りえ
青年(洋一) 藤原竜也
少年(文ちゃん) 西島隆弘
第一幕 18:30〜19:15
休憩20分
第二幕 19:35〜20:45
休憩10分
第三幕 20:55〜22:00
エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン [映画]
スペインのカタルーニャ地方にある「エル・ブリ」は、世界第一位に5回も選ばれた3つ星レストラン。オーナーシェフのフェラン・アドリアの飽くなき探究心のもと、食材を泡状にする調理法“エスプーマ”を考案し、真空化、球体化などの様々な調理法を実践している。年間200万件もの予約希望が殺到する、世界一予約の取れないレストランだ。通常は4月~10月までの6ヶ月間の営業をしていたエル・ブリだが、2009年は時期をずらして7月~12月の営業となった。ドイツ人監督のゲレオン・ヴェツェルは、新しい試みに緊張感を増すチェフ・チームの1年を追う。「意外性と感動、新しい食感」にこだわるフェラン・アドリアの素顔を知る事ができる作品だ。
解説 -
世界中から予約が殺到するバルセロナの三ツ星レストラン、エル・ブリ。その店舗改装の様子と、新たな料理の研究に情熱を燃やすオーナーシェフ、フェラン・アドリアの姿を追ったドキュメンタリー。芸術的ともいえる料理創作の秘密の一端が明かされる。監督は、「本を作る男-シュタイデルとの旅」のゲレオン・ヴェツェル。
あらすじ -
エル・ブリは、スペインのバルセロナから高速で2時間ほど離れたカタルーニャ地方にある三つ星レストラン。45席しかない小さな店に世界中から年間200万件もの予約希望が殺到する“世界一予約のとれないレストラン”である。カラ・モンジョイという美しく小さな入り江に面したこのレストランの厨房を仕切るのは、オーナーシェフのフェラン・アドリア。“世界でもっとも革新的なシェフ”と称され、食の世界に旋風を巻き起こし続けるカリスマである。日本古来の食材、ゆずの魅力を世界中に広めた功績は特に有名。“常に客に驚きを提供する”という強いこだわりを持つ彼は、先進的な手法を模索しながら、時に科学との融合を試み、斬新なアイディアで食の固定観念を打ち破ってきた。ところが11年1月、同年7月30日をもってレストラン業務を終了することを突然発表し、世界中に大きな衝撃を与えた。とはいえ、食の研鑽に憑かれた彼の闘いに終止符が打たれたわけではない。今後はエル・ブリを“料理研究財団”に変え、コンテンポラリー料理のさらなる進展のために心血を注ぐという。本作は、今までの4月初めから秋までのオープン期間を変更し、初めて7月から冬まで営業をするという新しい試みの準備過程を記録したものである。冬に旬を迎える食材を意識し、アトリエでの新しい料理の開発と研究、レストランでのクリエイティブな作業、そして新メニュー完成からお披露目に至るまで。それらの緻密なプロセスには例年以上に神経が注がれる。その姿には、食に興味のある人はもちろん、まったく関係のない人も驚き、興味を掻き立てられることは必至。カメラは、フェランやスタッフの動きと会話、多彩な食材と調理の姿を追いつつ、彼らの苦悩と焦燥、新しい物を生み出すことの喜びと達成感を捉え、エル・ブリの神髄を伝える。飽くなき食への探求で生み出されるものは、料理を超えてもはや芸術である。
ワンシーズン8000人の予約しか取れないところへ世界中から200万件も予約が殺到するのでは「世界一予約の取れないレストラン」というのも間違いはないが、2011年7月で閉店してしまったので、「もう予約が取りたいけれど取れないレストラン」へ変わってしまった「エル・ブリ」の記録映画である。
オーナーシェフ自ら「前衛的レストラン」というように、通常の西洋風のコース料理の概念を打ち破る30品もの料理を供する異色の存在。しかも同じ料理は二度と出さないという徹底ぶりで、1年の半分は開発に費やすという模様が描かれていた。
その年のテーマは「水」ということらしく日本のオブラートを使った皮が溶けるラビオリとか、水とヘーゼルナッツオイルを混ぜた料理?とか、ちょっと奇妙な料理のオンパレードである。空腹を満たす料理ではないし、美食に飽きた人を驚かすような趣向を斬新な手法で提供するのを目的としたようなレストランで、まあ普通の人には永遠に無縁な存在ではある。3時間以上もかけて、延々と出される料理を楽しめる自信がそもそもない。出来上がった料理は本当にアートのように美しく創造性に満ちている。それを生み出す苦しみを考えると、店を閉店したくなった気持ちもわかるような気がした。
「エル・ブリ」は、お客が厨房を通って店内へ入るのが演出らしく、厨房は窓が大きく明るく、整然としていている。スタッフはコック服は着ているが、コック帽はかぶっていない。ガスの器具はなくて、すべて電磁調理器を使用していた。また真空調理器、スタッフのシェフたちはデジカメ、パソコンを包丁と同様に扱っていたのが、いかにも21世紀らしい厨房風景で印象的だった。もっともスリリングなのは、厨房に陣取ったオーナー・シェフが次々に料理を味見していくところと、オープン初日の緊張感にあふれた厨房内など、普段は観ることが難しいところを撮影しているのが誠に面白く興味深かった。
ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル [映画]
トム・クルーズが製作・主演を務める「ミッション:インポッシブル」シリーズの第4弾。『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』で2度のアカデミー長編アニメーション賞に輝いたブラッド・バードが初の実写監督に挑んだ。今回のイーサン・ハントは、ドバイにある世界一の超高層ビル“ブルジュ・ハリファ”の壁面をよじ登ったり、複雑に動き回る立体駐車場の中で格闘したりと、正に縦横無尽の活躍を繰り広げる。これらのアクションをすべてトム・クルーズ自身が演じているというのだから、その役者魂には脱帽だ。今回チームを組むサイモン・ペッグ、ジェレミー・レナー、ポーラ・パットンらとのチームワークも見どころの一つだ。
解説 -
監督に「レミーのおいしいレストラン」のブラッド・バードを迎えたシリーズ第4弾。スパイの称号を奪われ孤立無援の中、究極のミッションに挑むスパイ、イーサン・ハントの活躍を描く。出演は「ナイト&デイ」のトム・クルーズ、「ザ・タウン」のジェレミー・レナー、「スター・トレック」のサイモン・ペッグ、「プレシャス」のポーラ・パットン。
あらすじ -
ロシアのクレムリンで爆破事件が発生。その容疑がIMF(極秘スパイ組織・不可能作戦班)のイーサン・ハント(トム・クルーズ)とそのチームにかけられる。米大統領は政府が事件に関与した疑いを避けるため、「ゴースト・プロトコル(架空任務)」を発令。イーサンチームはIMFから登録を抹消されてしまう。国や組織という後ろ盾を失ったまま、クレムリン爆破の黒幕を追い、さらなる核テロを未然に防ぐというミッションの遂行を余儀なくされるイーサンたち。失敗すれば彼らは、凶悪テロリストとして全世界に指名手配されてしまうのだ。黒幕たちの取引の現場は、世界一の高さと最新のセキュリティを誇るドバイの超高層ビル、ブルジュ・ハリファ。難攻不落の天空城に、特殊粘着グローブと命綱一本で外部からの侵入を試みるイーサンだが……。幾重にも張り巡らされた罠と、よぎる裏切りの影。そして次第に明らかになるミッションの〈真の目的〉とは……。
天使の隣町のシネコンは東日本大震災によって損傷を受け一部が閉鎖されたいたのだが、昨年の秋に営業を再開。それにあわせて全館の全スクリーンにSONY DIGITAL CINEMA 4Kを導入したとかでフィルム上映はおこなわれなくなった模様。一番大きなスクリーンもデジタル上映しかも4Kだというので早速出かけてみた。元々音響は素晴らしかったのだが画面も鮮明で言うことなし。
もっとも天使の町のド田舎のシネコンには、今年の5月にIMAXデジタルシアターがオープンする。
この新しいシアターは、日本初の“単独棟”によるIMAXRデジタルシアターとなり、現在の「成田HUMAXシネマズ8」に隣接して建設され、建坪330坪、延べ面積700坪、鉄骨構造3階建(高さ23m)、客席470席となる予定。劇場は客席の視野角を最大化するため、わずかにカーブした大スクリーンが観客により近い位置に設置され、映写システムは2台のデジタルプロジェクターをIMAXR独自のイメージエンハンサーとカスタムレンズを組み合わせることで、より一層明瞭さと明るさ、そしてコントラストを持つ映像を造り出す。また、映像は独自のラウドスピーカー・テクノロジーと非圧縮デジタルサウンドを特徴としたIMAXRの最新サウンドシステムで補完される。このシステムは10倍以上のダイナミックレンジを有し、音の歪みを削減、特に音を吸収し反響を取り除くアコースティックパネルによって、より臨場感を感じさせるサウンドクオリティを提供する。
ということで、都会のビルの中にあるシネコンのIMAXデジタルシアターと違って、パチンコ屋の駐車場を半分潰して一から立ててしまおうというのだから凄い。すでに鉄骨の骨組みは出来上がっていて、地上から最高点までスクリーンだとしたら確かに国内最大級のIMAXデジタルシアターになるのは間違いがない。きっと大作映画は今後は地元のシネコンでみることになると思う。
観に行った映画館もスクリーンサイズが7.20m×17.50mとかなりの大きさで迫力満点なのだが、さすがにIMAXデジタルシアターとでは勝負にならないと思う。この『ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル』もIMAXデジタルシアターで上映されているらしいが、ハラハラドキドキが続いて面白い面白い。トム・クルースも身体を張った演技で楽しませてくれました。
まあ冷静に考えると何故死なないで生きているの?と思わない部分もなくはなかったが、そこが『ミッション:インポッシブル』でさあ。という感じでツッコミを入れるのは野暮というものだと思います。
個人的に嬉しかったのは、幼い時に見た「スパイ大作戦」の音楽、あまり有名でない旋律も含めて、さりげなくアレンジされていたこと。原作に対する敬愛の心が読み取れて良かったです。それにしてもハイテクな武器?が発達しすぎていて、不可能は何もないという感じなのに、最終的には人間の肉体勝負というのも好感を持ちました。
通し狂言 三人吉三巴白浪 奴凧廓春風 国立劇場・初春歌舞伎公演 [歌舞伎]
45年目の初春に
作者別に演目を決めている国立劇場開場45周年記念公演の今月の作者は河竹黙阿弥である。人気の「三人吉三」と作者の絶筆となった「奴凧廓春風」の上演という芝居と舞踊の二本立て。筋書に掲載されている役者の顔写真を数えてみると役者の数は31名だった。子役も入れて100名近くの役者が出ている新橋演舞場の三分の一である。さすがに世話物でも「加賀鳶」のような大掛かりな演目は無理な訳で人数が少なくても上演できる演目ということで「三人吉三」に落ち着いたということだろうか。
お正月は国立劇場が一番華やぐ時である。普段は無機質で飾り気のない客席の壁も提灯だけでなく繭玉の装飾がある。ロビーの天井には大凧が掲げられ、劇場の内外にお正月らしい雰囲気があふれる。しかも今月は仮花道も設けられている。「吉野川」や「野崎村」ではないので、必ずしも両花道が絶対に必要という訳ではないのだが、一等A席を54席も潰しているとは興行優先ではない?国立劇場の優れた点でもある。一回の公演で約50万円の減収、一ヶ月で1000万近くにもなるのだから、新しい歌舞伎座でもおいそれと真似できる芸当ではない。
歌舞伎座に比べて舞台装置がいつも美しいのも国立劇場の特徴である。毎回毎回、新調しているのか歌舞伎座のように草臥れた感じがしないのがよい。もっとも「三人吉三」のような人間の暗部をあぶり出すような芝居では、あまりに清潔すぎる舞台面というのもプラスに働くばかりでなく、マイナスになることもあるようだ。
殺人、盗み、近親相姦、同性愛など、なんとも凄まじい因果噺なのに毒素が薄まってしまって、なんとも味気ないものになってしまったのは、劇場の雰囲気が大いに作用しているように思えてならない。最もそれを感じたのは、三幕目の「巣鴨在吉祥院本堂の場」「同 裏手墓地の場」といった一連の部分である。幸四郎の和尚吉三は、彼が演じている黙阿弥ものなかでは最良の部類に入る適役なのだが、この場面だけは弾まないし盛り上がりに欠けてしまう。同じく染五郎のお坊吉三と福助のお嬢吉三の退廃的で哀しくも切ないはずの色模様も艶っぽさが足りないで消化不良気味だったのは残念だった。劇場は新しく綺麗であればよいというのは、歌舞伎には当てはまらないようである。
かつての歌舞伎座には、こんな芝居を何者かが見守っているような気配を感じたことがあったが、国立劇場には絶対ありえないことなのである。きっとビルに組み込まれてしまう新しい歌舞伎座も同じようになってしまうのだろう。なんとも歌舞伎にとっては厳しい時代になったものである。
通し狂言と謳っているものの、犬をめぐる因果噺の発端はなくて有名な「大川端庚申塚の場」から始まる。いつになく福助が女姿の時には可愛い声をつくり、男の声で演技する時には地声でという変わり目を強調したいのだろうが客席からは失笑が…。何を演じても笑いの方向へ転じてしまうのは福助の個性なのだろうが気の毒でもある。そんなに笑われるように演技はしていないと思うが…。福助はコクーン歌舞伎では演じているものの成駒屋とは縁のない芝居ということで初役。染五郎のお坊吉三とのバランスはよいのだが、女装して悪事を働くという病んでいる感じがしないのも笑いが起きる一因かもしれない。せっかくの名台詞の名調子も盛り上がらずに終わってしまった。
幸四郎の和尚吉三は、二人に比べるとやはり役者の器の大きさの違いを感じた。安定感があり、台詞回しも研究されていて黙阿弥調であるし、幸四郎らしい明快さを失っていないという見事なものだったと思う。さすがに幸四郎も年齢を重ねていることを隠しきれなくて、ひと回り身体が小さくなった?ように感じる部分もなくはなかったが、説得力のある台詞が心地よく響いて満足させてくれた。
「割下土左衛門伝吉内の場」は、夜鷹たちを幸雀、芝喜松、芝のぶらが好演するものの、やはり喜劇味が勝って江戸の暗部という感じは少なかった。小さな座組ゆえに寿猿、錦吾といった人たちが脇を固めているが通常の歌舞伎公演とは違った楽しみとなってよかった。染五郎のお坊は「お竹蔵の場」の殺しが、あっさりしすぎていて存在感が希薄。もっと自由奔放にできる人だと思っていただけに意外な印象だった。
「本郷火の見櫓の場」で両花道を使うという本来の演出を再現。やはり上手よりお嬢吉三が出てくるよりは、劇場全体を使ったオリジナルの演出の方が素晴らしいのだと実感。火の見櫓の迫り下げ上げなど演出にも工夫があるのは相変わらずなのだが、あまり意味のあるようにも思えないがどうだろう。最後は美しい絵面となって幕となるのが歌舞伎らしかった。
黙阿弥の絶筆となった「奴凧廓春風」は染五郎の振付による三段返しの舞踊劇で全段通しての上演は百五年ぶりという珍しいもの。お正月らしい曽我物として始まり、宙乗りのまま踊る奴凧の凧揚げ、さらに富士山の麓での猪退治という場面展開。
曾我兄弟が100年後の今日では馴染みがないだけに取り立てて面白い演目とも思えなかった。染五郎が大活躍で十郎、奴凧、仁太郎の三役を踊る。奴凧では宙乗りのまま踊り、最後は回転しながら大迫を下がっていくという荒業を披露して驚かせるし、大猪との死闘も工夫があった。しかしながら一貫した物語ではないので戸惑いもあって散漫な印象の作品となってしまった。
中段は幸四郎と金太郎が奴凧を揚げるのが趣向で、染五郎も奴凧で同じ舞台を踏む親子三代が顔を揃えるめでたいものになったのが何より。典型的な爺馬鹿、親馬鹿の演目になっていたが、白鸚の舞台も見ているので四代に渡って高麗屋を見続けてきたことになり感慨無量でもあった。途中で二回も手ぬぐい撒きがあるという大盤振る舞いなのもお正月らしかった。
福助の大磯の虎は花道からいささか寂しい花魁道中?で登場し、外八文字を披露するが、歌江の新造が出てきただけで遊郭の空気が流れ出すのは実にたいしたものだった。歌右衛門の元で何度も演じてきただけのことはある貴重な役者である。
国立劇場開場45周年記念
河竹黙阿弥=作
通し狂言 三人吉三巴白浪 四幕七場
釘町久磨次=装置
序 幕 大川端庚申塚の場
二幕目 第一場 割下水土左衛門伝吉内の場
第二場 本所お竹蔵の場
12:00〜13:10
幕間 35分
三幕目 第一場 巣鴨在吉祥院本堂の場
第二場 同 裏手墓地の場
第三場 同 元の本堂の場
大 詰 本郷火の見櫓の場
浄瑠璃『初櫓噂高嶋』 清元連中・竹本連中
13:45〜15:00
和尚吉三 幸四郎
お坊吉三 染五郎
お嬢吉三 福助
八百屋久兵衛 寿猿
土左衛門伝吉 錦吾
伝吉娘おとせ 高麗蔵
十三郎 友右衛門
幕間 20分
河竹黙阿弥=作
鈴木英一・国立劇場文芸課=補綴
奴凧廓春風
竹本連中・常磐津連中・長唄連中
松本錦升=振付
国立劇場美術係=美術
15:20〜16:10
曽我十郎/奴凧/富士の仁太 染五郎
大磯の虎 福助
赤沢十内 高麗蔵
番頭新造庵崎 歌江
新造小藤 廣太郎
新造小雪 廣松
舞鶴屋倅小伝三 金太郎
舞鶴屋朝蔵 幸四郎
作者別に演目を決めている国立劇場開場45周年記念公演の今月の作者は河竹黙阿弥である。人気の「三人吉三」と作者の絶筆となった「奴凧廓春風」の上演という芝居と舞踊の二本立て。筋書に掲載されている役者の顔写真を数えてみると役者の数は31名だった。子役も入れて100名近くの役者が出ている新橋演舞場の三分の一である。さすがに世話物でも「加賀鳶」のような大掛かりな演目は無理な訳で人数が少なくても上演できる演目ということで「三人吉三」に落ち着いたということだろうか。
お正月は国立劇場が一番華やぐ時である。普段は無機質で飾り気のない客席の壁も提灯だけでなく繭玉の装飾がある。ロビーの天井には大凧が掲げられ、劇場の内外にお正月らしい雰囲気があふれる。しかも今月は仮花道も設けられている。「吉野川」や「野崎村」ではないので、必ずしも両花道が絶対に必要という訳ではないのだが、一等A席を54席も潰しているとは興行優先ではない?国立劇場の優れた点でもある。一回の公演で約50万円の減収、一ヶ月で1000万近くにもなるのだから、新しい歌舞伎座でもおいそれと真似できる芸当ではない。
歌舞伎座に比べて舞台装置がいつも美しいのも国立劇場の特徴である。毎回毎回、新調しているのか歌舞伎座のように草臥れた感じがしないのがよい。もっとも「三人吉三」のような人間の暗部をあぶり出すような芝居では、あまりに清潔すぎる舞台面というのもプラスに働くばかりでなく、マイナスになることもあるようだ。
殺人、盗み、近親相姦、同性愛など、なんとも凄まじい因果噺なのに毒素が薄まってしまって、なんとも味気ないものになってしまったのは、劇場の雰囲気が大いに作用しているように思えてならない。最もそれを感じたのは、三幕目の「巣鴨在吉祥院本堂の場」「同 裏手墓地の場」といった一連の部分である。幸四郎の和尚吉三は、彼が演じている黙阿弥ものなかでは最良の部類に入る適役なのだが、この場面だけは弾まないし盛り上がりに欠けてしまう。同じく染五郎のお坊吉三と福助のお嬢吉三の退廃的で哀しくも切ないはずの色模様も艶っぽさが足りないで消化不良気味だったのは残念だった。劇場は新しく綺麗であればよいというのは、歌舞伎には当てはまらないようである。
かつての歌舞伎座には、こんな芝居を何者かが見守っているような気配を感じたことがあったが、国立劇場には絶対ありえないことなのである。きっとビルに組み込まれてしまう新しい歌舞伎座も同じようになってしまうのだろう。なんとも歌舞伎にとっては厳しい時代になったものである。
通し狂言と謳っているものの、犬をめぐる因果噺の発端はなくて有名な「大川端庚申塚の場」から始まる。いつになく福助が女姿の時には可愛い声をつくり、男の声で演技する時には地声でという変わり目を強調したいのだろうが客席からは失笑が…。何を演じても笑いの方向へ転じてしまうのは福助の個性なのだろうが気の毒でもある。そんなに笑われるように演技はしていないと思うが…。福助はコクーン歌舞伎では演じているものの成駒屋とは縁のない芝居ということで初役。染五郎のお坊吉三とのバランスはよいのだが、女装して悪事を働くという病んでいる感じがしないのも笑いが起きる一因かもしれない。せっかくの名台詞の名調子も盛り上がらずに終わってしまった。
幸四郎の和尚吉三は、二人に比べるとやはり役者の器の大きさの違いを感じた。安定感があり、台詞回しも研究されていて黙阿弥調であるし、幸四郎らしい明快さを失っていないという見事なものだったと思う。さすがに幸四郎も年齢を重ねていることを隠しきれなくて、ひと回り身体が小さくなった?ように感じる部分もなくはなかったが、説得力のある台詞が心地よく響いて満足させてくれた。
「割下土左衛門伝吉内の場」は、夜鷹たちを幸雀、芝喜松、芝のぶらが好演するものの、やはり喜劇味が勝って江戸の暗部という感じは少なかった。小さな座組ゆえに寿猿、錦吾といった人たちが脇を固めているが通常の歌舞伎公演とは違った楽しみとなってよかった。染五郎のお坊は「お竹蔵の場」の殺しが、あっさりしすぎていて存在感が希薄。もっと自由奔放にできる人だと思っていただけに意外な印象だった。
「本郷火の見櫓の場」で両花道を使うという本来の演出を再現。やはり上手よりお嬢吉三が出てくるよりは、劇場全体を使ったオリジナルの演出の方が素晴らしいのだと実感。火の見櫓の迫り下げ上げなど演出にも工夫があるのは相変わらずなのだが、あまり意味のあるようにも思えないがどうだろう。最後は美しい絵面となって幕となるのが歌舞伎らしかった。
黙阿弥の絶筆となった「奴凧廓春風」は染五郎の振付による三段返しの舞踊劇で全段通しての上演は百五年ぶりという珍しいもの。お正月らしい曽我物として始まり、宙乗りのまま踊る奴凧の凧揚げ、さらに富士山の麓での猪退治という場面展開。
曾我兄弟が100年後の今日では馴染みがないだけに取り立てて面白い演目とも思えなかった。染五郎が大活躍で十郎、奴凧、仁太郎の三役を踊る。奴凧では宙乗りのまま踊り、最後は回転しながら大迫を下がっていくという荒業を披露して驚かせるし、大猪との死闘も工夫があった。しかしながら一貫した物語ではないので戸惑いもあって散漫な印象の作品となってしまった。
中段は幸四郎と金太郎が奴凧を揚げるのが趣向で、染五郎も奴凧で同じ舞台を踏む親子三代が顔を揃えるめでたいものになったのが何より。典型的な爺馬鹿、親馬鹿の演目になっていたが、白鸚の舞台も見ているので四代に渡って高麗屋を見続けてきたことになり感慨無量でもあった。途中で二回も手ぬぐい撒きがあるという大盤振る舞いなのもお正月らしかった。
福助の大磯の虎は花道からいささか寂しい花魁道中?で登場し、外八文字を披露するが、歌江の新造が出てきただけで遊郭の空気が流れ出すのは実にたいしたものだった。歌右衛門の元で何度も演じてきただけのことはある貴重な役者である。
国立劇場開場45周年記念
河竹黙阿弥=作
通し狂言 三人吉三巴白浪 四幕七場
釘町久磨次=装置
序 幕 大川端庚申塚の場
二幕目 第一場 割下水土左衛門伝吉内の場
第二場 本所お竹蔵の場
12:00〜13:10
幕間 35分
三幕目 第一場 巣鴨在吉祥院本堂の場
第二場 同 裏手墓地の場
第三場 同 元の本堂の場
大 詰 本郷火の見櫓の場
浄瑠璃『初櫓噂高嶋』 清元連中・竹本連中
13:45〜15:00
和尚吉三 幸四郎
お坊吉三 染五郎
お嬢吉三 福助
八百屋久兵衛 寿猿
土左衛門伝吉 錦吾
伝吉娘おとせ 高麗蔵
十三郎 友右衛門
幕間 20分
河竹黙阿弥=作
鈴木英一・国立劇場文芸課=補綴
奴凧廓春風
竹本連中・常磐津連中・長唄連中
松本錦升=振付
国立劇場美術係=美術
15:20〜16:10
曽我十郎/奴凧/富士の仁太 染五郎
大磯の虎 福助
赤沢十内 高麗蔵
番頭新造庵崎 歌江
新造小藤 廣太郎
新造小雪 廣松
舞鶴屋倅小伝三 金太郎
舞鶴屋朝蔵 幸四郎
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