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浅利慶太と佐々木忠次  劇団四季と東京バレエ団 [エッセイ]

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劇団四季を旗揚げし、劇団を最終的に追い出された浅利慶太。東京バレエ団を旗揚げし、健康問題からか団長を飯田宗孝に、芸術監督を斎藤友佳理に任せ自らは東京バレエ団の総監督として一線を退いた佐々木忠次。「食えない」のが常識な新劇界やバレエ界にあって、出演者に給料を支給すること、チケット販売に心を砕かなくてもよいこと、完備した稽古場を持つことなど、実現不可能なことを実現しようとした似た者同士の二人のように見えた。

ストレートプレイを存続させるため?にミュージカルを劇団の中心にすえた浅利慶太。ミラノスカラ座、ウィーン国立歌劇場、パリ・オペラ座バレエ団、英国ロイヤルバレエ団などの招聘、さらには世界バレエフェスティバルの開催などで東京バレエの活動を支えた佐々木忠次。これまた本業を支えるため、他の分野での稼ぎを投入していたように外からは見えた二人。似ていると思っていた。

この二人が激しく対立したのが第二国立劇場問題である。特にオペラ・バレエを上演するのが主な目的だった大劇場の定員を1600名にするか、2000名以上にするか対立した。あわよくば新国立劇場でミュージカルを上演したい浅利慶太は1600名を主張。「呼び屋」と浅利慶太から罵倒された佐々木忠次は2500名程度が理想的だと思っていたらしい。結局、1800名という中途半端な妥協案になってしまったのだが…。

やはり劇場の定員数が2500名ぐらいが適当だったように思う。海外からの歌劇場の公演が、相変わらず東京文化会館やNHKホールで上演されているのは観客にとって不幸である。せっかく四面舞台があるのに海外からの公演には生かすことが出来ないのはもったいない。

浅利の主張する1600名はありえない数字だったと思う。これでは新国立劇場のオペラやバレエに海外から歌手を呼ぶことができにくくなっただろう。1800名でも辛いはずで、超有名な歌手は一切呼べない歌劇場にとどまっているのは残念なことである。理想論を振りまわしても、劇場経営という現実がある。日生劇場の経営、さらには劇団四季の経営を危うくした人のことだけはある。

2500名になっていれば、もっと手軽にオペラやバレエを楽しむ席を設けることができたのではないだろうか。海外の有名歌劇場には立見席など、未来の観客を育てる仕組みがある。日本でも歌舞伎座の幕見席は有名だし、劇団四季の春と秋にが最上階の最後列に立見席のスペースがある。新国立劇場には、Z席という制度があるが、もっと多くの人に提供できなければ意味が無い。劇場の年間稼働率を上げるためか、中劇場は貸し出しも多いようだが、大劇場は中途半端な規模が禍してなかなか借り手がないようである。

佐々木忠次と浅利慶太はダンサーや役者に対しての接し方も異なっていたようだ。劇団四季の地方公演では終演後に役者が荷物をトラックまで運ぶことをまるで美談のように語られる。東京バレエ団の地方公演では、佐々木氏は絶対にダンサーに荷物を運ばせるようなことはさせなかったという。

東京の劇場でオペラカーテンが完備されているのは、新国立劇場、オーチャードホール、ゆうぽうとホール、めるぱるくホール、東京文化会館といったところだろうか。海外のオペラ劇場には標準装備されているオペラカーテンの威力は絶大で、オペラやバレエを華やかに彩る、さすがに地方の公共ホールにはない。そこで簡易のオペラカーテンを開発して、地方公演に運んでいって観客を驚かせたようなことがあったらしい。ある時は、オペラカーテンが故障して、必死に佐々木氏がロープにしがみついて事なきを得たこともあったという。それもこれも、海外公演の経験があったからだろうが、初期の頃はヨーロッパで金欠になってしまって苦難の旅となってこともあったようだ。

佐々木氏も浅利慶太も異口同音に異を唱えているのは、新国立劇場がお役人の天下り先になってしまっていること。最近はますます酷いらしいが、これだけは二人の共通認識だったようで、在野にいて苦労して舞台を創り上げてきた実感なのだろうと思う。


浅利 慶太

1933年:東京都出身
1953年:慶応義塾大学在籍中に「劇団四季」結成
1961年:日生劇場の制作営業担当取締役に就任、劇場運営のノウハウを学ぶ
1964年:日本初の本格的ミュージカル、米国人キャストでの『ウエストサイド物語』をプロデュース
1983年:東京・西新宿で『キャッツ』開幕。日本で例のなかった1年のロングランとなる
1998年:長野オリンピック開閉会式の総合プロデューサーを務める
2008年:年間公演数が初めて3,500を越える


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佐々木 忠次

ささき ただつぐ - Tadatsugu Sasaki

 1933年東京生まれ。日本大学芸術学部卒業後、オペラ、バレエ、演劇などさまざまな分野の舞台芸術において、舞台監督と制作プロデュースをつとめる。 1964年にチャイコフスキー記念東京バレエ団を設立以来、国内はもとより、22次668回にもわたる海外公演を実現し、東京バレエ団のレベルを欧米の著名なバレエ団と並ぶところまで引き上げることに成功した。東京バレエ団は海外では30カ国141都市で公演、パリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ロンドンのロイヤル・オペラハウス、ベルリン・ドイツ・オペラ、モスクワのボリショイ劇場、ペテルブルグのマリインスキー劇場など、ヨーロッパのほとんどの名門オペラハウスに日本のバレエ団としては初出演を飾っている。 また、東京バレエ団創立以来、プリセツカヤ、アロンソ、フォンティーンをはじめとする海外の著名ダンサーを招聘、彼らとの共演を重ねることにより、東京バレエ団、ひいては日本バレエ界の飛躍的レベル・アップに貢献した。


 さらには、ウラーノワ、ワルラーモフ、メッセレル、チャブキアーニ、ロナ、セミョーノワなどを指導者として招き、ダンサーの技術的、芸術的レベル向上に努める。特筆すベきは、1980年代後半以降、ベジャール、ノイマイヤー、キリアンといった現代の気鋭の振付家に作品を委嘱し、これら20世紀を代表する振付家のオリジナル作品をレパートリーに加えたことである。世界中のバレエ団を見渡しても、この快挙をなしとげた団体は数少ない。

 そのかたわら、英国ロイヤル・バレエ団、パリ・オペラ座バレエ団、アメリカン・バレエ・シアター、モ一リス・ベジャール・バレエ団など、西側の著名なバレエ団のほとんどを日本に招聘して成功を収めている。このほか、3年に一度、世界のトップ・ダンサーが一堂に会する<世界バレエフェスティバル>を企画。この催しは、1976年に第1回がおこなわれて以来すでに9回を数え、ニューヨーク、パリ、ロンドン、モスクワでも観られない、世界で最も重要なバレエ公演として国際的に知られている。

 バレエ招聘事業のみならず、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場、英国ロイヤル・オペラ、ベルリン・ドイツ・オペラなど欧米の名門歌劇場を数度にわたり招聘、日本公演を実現させている。なかでも16年越しの交渉の未に実現きせた81年のミラノ・スカラ座、大作「ニーベルングの指環」全曲の日本初演を実現きせた86年のベルリン・ドイツ・オペラ、カルロス・クライバー指揮「ばらの騎士」を実現きせて国内外のオペラ関係者の話題をさらった94年のウィーン国立歌劇場などの来日公演が特筆されよう。

 近年では、創立40周年を記念した東京バレエ団の記念公演を、足掛け2年20公演にわたって開催。マラーホフとセミオノワといったペアを日本に初披露したほか、古典から現代までの幅広いレパートリーを海外の著名なダンサーを交えて上演し、好評を博した。また、世界のバレエ・オペラ関係者が佐々木の古希を祝し、特別にプログラムを組んだ<FESTA2003>を開催。リッカルド・ムーティ指揮ミラノ・スカラ座が初めて字幕付公演を行ったほか、世界三大オーケストラの一つであるシカゴ交響楽団が始めてピットに入り東京バレエ団の伴奏を務め、その舞台上では、名ダンサー、シルヴィ・ギエムがゲストとして出演するなど、世界のバレエ・音楽界が注目する公演を一年間にわたって繰り広げた。2006年には30周年を迎えた世界バレエフェスティバルを大々的に開催した。

 これらの活動を通し、佐々木がわが国の音楽、バレエ界に果たした功績は計り知れない。

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安倍寧

新国立劇場についておっしゃっていること、すべて正しい。今更どうにもならず残念です。
by 安倍寧 (2017-01-26 17:37) 

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