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通し狂言・旭輝黄金鯱(あさひにかがやくきんのしゃちほこ) 国立劇場・初春歌舞伎公演 [歌舞伎]2010-01-19 [歌舞伎アーカイブス]

尾張名古屋は菊五郎でもつ


 普段は殺風景な国立劇場も初春公演だけは、柱に紅白の布?がまかれ、玄関に酒樽が積み上げられ正月気分が横溢する。名古屋城開府400年の記念事業もかねて並木五瓶作の「けいせい黄金鱐」より国立劇場文芸課の補綴、尾上菊五郎=監修による「通し狂言 旭輝黄金鯱(あさひにかがやくきんのしゃちほこ)」四幕八場
~尾上菊五郎大凧宙乗りにて黄金の鯱盗り相勤め申し候~と題された復活狂言というよりも、ほぼ新作のような作品が上演された。最近は4時間以内で上演という制約があるのか、その短い時間で筋を通さなければならないので、さまざまな取捨選択が行われたようである。

場割は以下の通りである。

序 幕 (京)   宇治茶園茶摘みの場
           宇治街道の場

二幕目(尾張)  那古野城内大書院の場
           同 天守閣屋根上の場

三幕目(美濃)  笠縫里柿木金助隠家の場

大 詰(伊勢)  御師大黒戎太夫内の場
    (尾張)  木曽川の場
          鳴海潟の場

 大凧に乗って名古屋城の黄金の鯱を盗んだという伝説があるという一般には忘れ去られてしまった盗賊柿木金助が主人公である。誰も知らないので自由な発想で物語が展開できるので、国立劇場らしからぬ当代の音羽屋らしい肩の凝らない芝居に仕上がっていたのはなによりだった。

 発端は、お定まりのお家騒動で、遊蕩に身を持ち崩す尾張の国主小田家の次男・春勝(松也)が、悪人に騙されそうになりながらも茶摘み女に身をやつしていた許嫁・国姫(梅枝)と結ばれ、お家の重宝「神武の旗」を巡る物語の始まりを面白くみせる。お茶畑で始まるというのが原作の趣向なのだそうで、遊女が茶摘み娘に扮して踊るのが確かに珍しい。若い二人の色模様、それをのぞき見する従者というのも定石通りの展開である。筋書にあった、悪人どもが「不義」を言い立てる部分は削除されていて、多少物語の展開に無理もあったように感じたが、大きな破綻をもなく進んでいった。これは若い松也と梅枝の役柄が様になっていたためで、二人とも悪くない出来だった。

 つづく「宇治街道の場」では、巡礼に身をやつした盗賊・向坂甚内(松緑)が登場し、悪者に追われた国姫は村治(時蔵)という老女に助けられ、(実はこの老女は柿木金助の母親で三幕目につづくのだが)美濃に身を寄せることになる。辻堂には菊五郎が扮する行者姿の柿木金助が登場。二人の盗賊が時代な扮装で対峙し幕となる。金助が落とした密書を手にした甚内は、金助の手下をあしらい花道を行きつ戻りつしながら大車輪の飛び六方をみせて幕となる。ここでは、座頭の菊五郎の大きさ、松緑の飛び六方が見物で、特に松緑が花道を横に下がりながら、また登場し、勇壮に花道を入る部分は、この頃の歌舞伎では見かけない、ドロ臭いというか、洗練とは対極にあるようなもので、作品が本来持つ味には似合っていたように思う。これで小屋が国立劇場のような近代的なものでなければ、もっと効果をあげていたに違いない。

 ここで10分の短い休憩の後、舞台は尾張の那古野城に移る。襖には竹に虎が描かれているのが寅歳ならではである。こうした心遣いがこの芝居には随所にある。当主・春長(菊之助)の元に、勅使が訪れるのだが、同じ名を名乗る菊五郎と松緑、二人の偽勅使が到着するのが趣向。当然のことながら、二人とも偽物で、甲賀流の忍びの秘伝書「遠霞の一巻」をねらっているのである。

 ここからが少々筋が入り込んでいて、甚内の抜いた剣の威力で金助は姿を消す。春長=菊之助は切腹とみせかけて悪者・道閑を殺す。なぜなら、春長=菊之助は実は道閑の子で、国を横領しようとした取り替え子の計略だったのだ。それが甚内=松緑の持っていた剣の威力によって、甚内=松緑こそが小田家の総領だったというのが判る。春長は鳴海春吉と名を変え、甚内→春長=松緑の家臣として仕えることになって幕となる。まあ、驚くべき展開のなのだが、菊五郎、松緑、菊之助らの好演で、なんとなく納得させられてしまった。原作から離れ、適時な補綴がなされているのと、芝居の運びが早いからで、こうしたところに菊五郎劇団らしいチームワークの良さが現れたに違いない。

 つづいて漆黒の闇の中で幕が開くと、前半の見せ場である「尾上菊五郎大凧宙乗りにて黄金の鯱盗り相勤め申し候」の部分である。下手側3階席の鳥屋から、舞台上手の舞台端の先にせり出した(最前列の観客は、斜めに張り出した天守閣の庇の下に隠れてしまった)部分に着地する大凧での宙乗りは、最近では染五郎も乱歩歌舞伎で試みているし、客席から舞台への逆宙乗りは、かつて猿之助も試みているので珍しくはないのだが、遠隔操作によって、凧が回転して、あらゆる方向の観客へ姿をみせることができたのが、新しい技術のようだった。

 天守閣に到着すると、舞台端に伸びていた庇が元に戻り、回り舞台の回転と連動して、正面を向いて天守閣屋根の上の場になる。黄金の鯱へ菊五郎が手を掛けたところで、追っ手の松緑と菊之助らが本火の松明を持って登場。鯱の口にあった「遠霞の一巻」を手に入れた菊五郎には、剣の威徳も通用しなくなり、黄金の鯱へ菊五郎がまたがると再び宙乗りになり、屋根がささやかに迫り下がって幕となる。本来なら大スペクタルなのだが、菊五郎は観客をあおるようなこともなく、涼しい顔して淡々と粋に演じるので、あまり盛り上がらない。ここでは、少々下品な猿之助のアザトイやり方の宙乗りだったら、もっと客席が沸いたかもしれない。音羽屋らしいといえばいえるのだが…。ここで長めの食事休憩?のための幕間となる。松竹の劇場で11時開演ならば、ちょうど良い頃合いなのだが、昼を我慢していた観客には遅すぎる時間となってしまったようだ。

 幕間をはさんで、前半の宙乗りと見せ場の連続になる大詰の間にある三幕目(美濃)「笠縫里柿木金助隠家の場」は、通し狂言ではお約束の世話の愁嘆場である。これも原作をいじって新作同様の部分なので、あまり面白くなく、盛り上がらないまま終わってしまった。物語の主軸は、金助の隠れ家に松緑の春長が鷹狩りの途中に訪れる。実は金助の母親・村路(時蔵)は、松緑の乳母で金助とは乳兄弟だということが判明する。そこで村路は自害をして、敵同士になった二人の顔をそれぞれ立てようとする。歌舞伎にはよくあるパターンといえばいえるのだが、宙乗り同様に淡々としてしまい、突っ込んだ芝居をしてくれないので盛り上がらないし、現代の感覚では物語の展開に無理があるようにも思える。他の部分が類型的ではないだけに、余計にその単調さが際立ってしまったようである。

 菊五郎、時蔵、松緑、菊之助と顔揃いなのだが、この場の主役である母親・村路が中堅の時蔵では気の毒でもある。足が不自由でなければ、この一座では田之助あたりに演じてもらえれば、違った展開もあったように思えるが、こうした芝居のコクを出すためには駒不足だったと言わざるを得ない。愁嘆場といいながら、泣いた観客よりも寝ていた観客のほうが多かったように思う。

 大詰は原作を大きく離れて、「初笑い」「本水」「手拭まき」という三大噺になってしまったようである。「御師大黒戎太夫内の場」では、菊五郎のアイディアらしいが、前々回の俳優祭で演じて大好評だった「千手観音」なるぬ「千住観音」。それをさらにバージョンアップした「金鯱観音」のパフォーマンス。とっても馬鹿馬鹿しいのだが、国立劇場の生真面目?な歌舞伎公演では考えられないような赤や青の照明も駆使して大いに笑わせる。その他、海老蔵の婚約をネタにした楽屋落ちめいた台詞などもあり、その後の芝居は「法界坊」の趣向を入れて、恋文を証拠に若い二人を窮地に陥れようとして、自分の恋文とすり替えられて逆にやりこめられるという他愛のないお馴染みの展開がある。そのきっかけを作るのが男寅が演じる下女?なのだが、台詞、動きともに素人以下で唖然とさせられた。いくらなんでも変声期?とはいえ下手すぎる。

 つづいて、これまた国立劇場では珍しい本水使用の「鯉つかみ」ならぬ「金鯱つかみ」を赤い下帯ひとつの菊之助が演じる。「木曽川の場」ということだが、前面にプールがあり、後方に滝という具合で舞台全面が岩場の態である。客席には2列目までビニールが配られ、濡れないようにという配慮があったのも国立劇場では珍しい光景だった。原作にはない場面らしく、菊之助一人だと絵的に寂しい感じがして、従者なり捕手なり、登場する人数を増やして、もっともっと派手に演じたほうが効果的だったように思う。少々長すぎたので単調になってしまった。

 最後を飾るのは、国崩し風の扮装で菊五郎が花道かた登場し、花四天との短いからみがあって、これまたお定まりの主な登場人物が登場し、渡り台詞のにちに、お家の重宝も収まるべきところへ収まり、最後は三段の上に座頭の菊五郎が乗って見得をきり幕となる展開である。その途中に、恒例の手拭いまきなどがあり、桜が満開の背景といい、華やかな打ち出しとなった。ここでは、菊五郎に座頭の風格があり立派で安定感は抜群だった。チャリ場から大団円の座頭まで幅広い役柄を手がけることのできる菊五郎の俳優としての円熟を味わうことと、着実に若手世代が実力を発揮しつつあるということを実感できた正月公演であった。

2010-01-19 00:09
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伊達の十役 初春花形歌舞伎・夜の部 新橋演舞場 [歌舞伎]2010-01-12 [歌舞伎アーカイブス]

復活の手応え


昭和54年4月に明治座で猿之助によって復活上演された『伊達の十役』のほぼ10年ぶり上演である。しかも上演時間と主演の猿之助の体力の衰えによるのか省略されてきた大喜利所作事『垂帽子不器用娘』も復活した完全版である。このところ、『四の切』の狐忠信を澤瀉屋型で演じて、猿之助に急接近している海老蔵の主演なのも話題であった。すでに右近らが、一部の復活狂言の再上演を試みてはいるが、この公演の成功如何によっては、猿之助の復活した通し狂言のいくつかは海老蔵によって上演される可能性もある訳で大いに舞台成果が注目された。

 結論から言えば歌舞伎の花形役者の中では最大のスターである海老蔵ではあるが、役の抽斗の少なさはどうすることもできないようで、女形の最高峰の役である政岡、腰元・累、高尾大夫はことごとく落第点。特に政岡は「片はずし」の大役の経験が乏しくて手も足もでないような状態だった。たとえ早替わりが売り物であっても、じっくり芝居を見せるところは本格的なものを見せるというのが、かつての猿之助の方針であった。まだ歌右衛門が存命中であるのに、極めつけの大役に挑んだのは壮挙でもあったのだ。初演の八汐は二代目 中村鴈治郎で、歌右衛門の相手役をも務める名優を得たのだから、芝居が盛り上がらないわけがなかったのである。さらに先代・門之助、宗十郎、延若、段四郎などが引き継いできた。

 今回は右近の八汐で、海老蔵とのバランスはよくても、芝居全体を支えるまでには至らずに終わった。それは栄御前の笑三郎、沖の井の門之助、松島の春猿など、誰一人として満足できる成果を上げられずに崩壊状態で痛々しいものになった。何しろ上演時間が5時間半である。30年前の観客は耐えられたとしても、現代の観客にはさすがに受け入れ難いものだったようである。元の芝居を知っていなければ辛いし、なまじ知っていれば避けて通りたいといった光景が展開していった。

 他の女形の役、腰元・累、高尾大夫も満足いくレベルには、ほど遠く何度も観客から失笑が起きていた。なまじ整った顔立ちであるおかげで、歌舞伎の女形としては不利に働いたようである。猿之助は、それほどの美形ではないことが幸いして、厚みのある女形として化粧映えがしていた。

 それに引き替えて合格点だったのは、仁木弾正、荒獅子男之助、細川勝元らの立役に見るべきものがあった。特に『垂帽子不器用娘』の押し戻しで出た荒獅子男之助に最も感心させられた。隈取りを伴った早替わりも鮮やかなのだが、本舞台にかかったからの見得の大きさ、目をむいて?のきまりなど、海老蔵以外には演じられそうもない力感に溢れたもので、その迫力に圧倒された。偶然にも團十郎が歌舞伎座で押し戻しを演じているが、荒事の骨法を体現したという点では海老蔵の圧勝だった。

 逆に床下の荒獅子男之助では、仁木への早替わりのため、隈取りがテープ?なのか美しくなく、台詞回しも苦しげで残念だった。早替わりのために、ねずみの着ぐるみと警護の侍とのからみがあるなど、間が延びてしまったが、それを補ってあまりあるほど素晴らしい仁木弾正だった。「お祖父さん、そっくり」の掛け声も、あながち的外れではないようである。「空を歩むように」という口伝通り、空中歩行をしてしまう宙乗り版だが、妖気が漂う雰囲気は一級品で、政岡の大失点を一気に挽回したようである。

 勝元の台詞の明解さ、役としての爽やかさなど、余人をもって代え難い魅力に溢れていて、『御殿』と違い芝居の世界にどっぷりと浸ることができた。ここまで主役が充実していると、渡辺下記の市蔵、渡辺民部之助の獅童も影響されたのか好演していた。

 細かな早替わりのテクニックは、たとえば土手の道哲の白塗りの顔に黄色の照明を当てることで、砥の粉の顔に見せかける(実際には黄疸みたい)など、海老蔵にこと細かに伝授されたようで花道での「昆布巻」の早替わりも鮮やかにきめてみせていた。七代目團十郎が初演した作品を、猿之助を通して、海老蔵が初演した意義は大きい。めぐり合わせを改めて感じさせる。そこで得た方法論を、是非自分のものとして欲しいとも思う。そして海老蔵自らが発掘して再創造する作品を産み出していって欲しいと思う。年末のテレビ番組で、早稲田大学の演劇図書館で熱心に代々の團十郎の資料に目を通していた姿から夢想するのである。もっとも、図書館なのに「ざるそば」を出前させてしまった破天荒さというか世間知らずというか、前例のないようなスケールの大きさにも期待は大であるのだけれど。

2010-01-12 19:27
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寿曽我対面 黒塚 春興鏡獅子 新橋演舞場 初春花形歌舞伎・昼の部  [歌舞伎]2010-01-08 [歌舞伎アーカイブス]

賞味期限切れのおせち料理


 5月から歌舞伎の専門劇場になるであろう新橋演舞場に、今年も海老蔵、獅童、段治郎を除いた右近をはじめとする猿之助一門が出演する公演である。12月は休館して、舞台が張り替えられたり、観客用のドリンク・カウンターが新設されたりと、歌舞伎を迎え準備は整ったようだ。

 昨年は歌舞伎の名作を若手花形で上演という内容だったが、今年は猿之助の指導による夜の部『伊達の十役』をメインに、昼の部は猿之助が上演を重ねてきた名作『黒塚』を右近が継承するというのも話題である。『伊達の十役』が上演時間5時間半の完全版の上演となったため、昼の部は三演目ながら上演時間4時間と短めの内容となった。

 『寿曽我対面』は、さまざまな役柄が網羅されていることもあり、これぞ歌舞伎というような芝居である。本興行以外にも例えば「稚魚の会」のような勉強会のような場で取り上げられてきた。歌舞伎役者では、誰でも演じていて当たり前のような演目でもある。ところが、歌舞伎の王道を歩んできたのではない獅童、こうした狂言とは縁のなかった猿之助一門の役者たち、ほぼ全員が初役という珍しいことになった。

当然のことながら、型どおりの演技なので間違いはないが、感動に値するべき部分を見つけるのは困難だった。老優の放つ不思議な力もなければ、伸び盛りの若手の奔放さもない。唯一、梶原平次を演じた新十郎の元気のよい台詞が目立っていた程度だった。

 お正月らしい「曽我狂言」であること、初役の役者に経験を積ませること以外に、上演の意義はなかなか見出すことができなかったのが残念だった。ひたすら舞台にあふれる色彩美を楽しむのに徹するのみである。工藤の右近、五郎の獅童、十郎の笑也、大磯の虎の笑三郎、化粧坂少将の春猿、朝比奈の猿弥と顔ぶれがそろっていただけに意外の感があった。場内のチラシに三越劇場の秋の新派の公演「滝の白糸」があった。主演は春猿であるという。彼ならば新感覚をもった新派女形を現出させるに違いないが、肝心な歌舞伎では成果を上げられないのがもどかしい。猿之助の公演で周囲をかためることが多かっただけに、あまりに遅すぎたという感じである。

 勉強芝居のレベルだった『寿曽我対面』に続いて、猿翁十種の内『黒塚』の待望の上演である。猿翁から猿之助に引き継がれ、段四郎の代役以外には、全部猿之助が演じてきたものである。実に東京では10年ぶりの上演となった。歌舞伎舞踊としては異色な作品であるばかりでなく、猿之助という役者の魅力が最大限に発揮されたものだけに、後継者に指名されたも同然な右近にとって、大きな挑戦であったことは間違いがない。

 東京では歌舞伎座以外では上演しなかったこともあって、新橋演舞場では、広大な舞台に広がる薄原といったスケール感が乏しいのに違和感があった。岩手を演じた右近は、粘ったような台詞回しなど猿之助そっくりなのだが、所詮は物真似のレベルでしかなったのが辛い。

 能仕立ての上巻では役の掘り下げが足りず、新舞踊形式の中巻では観客を喜ばせる高揚感、一転しての爆発的な身体能力などが欠けていた。歌舞伎形式の下巻では、仏倒し、花道から舞台へ中腰のまま引き戻される部分など、右近の体力では十分な表現ができたともいえず、なんとも中途半端な印象だけが残った。舞台端につけられた照明器具で浮かび上がった鬼女が、大きな口をあけて両手を振りまわすという、恐ろしさよりも役者の愛嬌をみせるような遊び心のあふれる趣向も不発に終わった。右近の初演がもっと早い時期に実現していればと残念でならない。失礼な言い方かもしれないが、この役は生意気で意欲的な役者の方が似合うわけで、亀治郎による一刻も早い初演を望みたい。

 『春興鏡獅子』は九代目團十郎によって初演された新歌舞伎十八番であるだけに、海老蔵が積極的に踊っている演目である。本興行では三回目だが、すでに海外でも上演しているだけあって、一応は危なげなく踊るし、大きな破綻はない。舞台を歩いて移動することも容易ではなかった、初めて歌舞伎座で踊った10年以上前の初役ときの箸にも棒にも掛からない悲惨な鏡獅子から比べれば格段の進歩である。その一方、同世代で踊っている菊之助、勘太郎、亀治郎、七之助らに比べ、ここが優れているという点がないのが辛いところである。

 あえて美点をあげるとすれば、立役である海老蔵の意外なほどに美しく可憐な弥生であったり、初演の意地だけで踊っているようなトゲトゲしい荒削りな部分がなくなり、役者としての自信と余裕をもっているところ。本当は肉体的に辛いはずの部分でも、涼しい顔で踊っているところで体力的には問題がないことろなどであろうか。

 しかしながら、観るべきものがないのは、『黒塚』の右近と同様で、どちらも歌舞伎舞踊の人気演目であるというのに、それほど有り難味を感じなのは、第一人者との差があまりに大きく、そうしたハンディを抱えているにせよ、肉体から放たれる力の弱さによるものだと思う。このままでは、天使にとって初めて観た『鏡獅子』である、かつて立役の初代・辰之助でも踊れるんだと驚いた昭和53年9月の新橋演舞場での珍品というか、新春かくし芸大会?といった扱いになるのではないかと心配である。

 正月らしい歌舞伎狂言、人気舞踊が二演目と、短い時間ながら充実した内容と舞台成果を狙ったのだろうが、すべてにおいて薄味で、華やかさもなく、物足りなさばかりが目立ったのが残念だった。

2010-01-08 23:33
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春の寿 車引 京鹿子娘道成寺 与話情浮名横櫛  壽初春大歌舞伎・夜の部 1月歌舞伎座 [歌舞伎]2010-01-07 [歌舞伎アーカイブス]

語る、歩む、にらむ、芸はいろいろ


 歌舞伎座の初日、昼の部の『勧進帳』が終わってロビーに出ると、夜の部の『春の寿』へ久しぶりの出演が予定されていた雀右衛門が体調不良のため休演という知らせがでていた。本当に25日間の興行に出演できるのか危惧されていただけに、真っ先にと初日に駆けつけたのだが残念な結果で落胆は大きかった。

 インタビューに「本興行はしばらくお休みしておりましたので、久しぶりの舞台に少々緊張しております(笑)。歌舞伎座は私にとってホームグラウンドと言える劇場ですので、さよなら公演の最後のお正月興行に出演できてとても嬉しいです」と答えていただけに、雀右衛門の無念の想いはいかばかりかと、代役の魁春の踊りを眺めながらも冷静ではいられなかった。

 長唄舞踊の新作で、雀右衛門、梅玉、福助の出演を前提につくられたらしく、優雅な王朝物で前半は在原在平、小野小町の二人による踊り。背景が飛んで後半の女の帝は座ったままで、扇を動かすのみの振付でめでたく舞い納めるという趣向で極力足などに負担をかけないように配慮されたようだった。それだけに雀右衛門が出演でなければ意味のないような演目である。それでも、王朝物の登場人物が最も似合う梅玉、台詞がなければ安心の福助、貫禄不足とはいうものの、立女形としての重責を務めた魁春と、かつて歌舞伎座に君臨した成駒屋に所縁の役者が揃ったので、お正月の気分を味わうには十分だった。

 『車引』は、松王丸に幸四郎、梅王丸に吉右衛門という兄弟の競演。80歳を越えて初役の桜丸を演じた芝翫。五代目幸四郎の錦絵、「演芸画報」に載っていた初代・吉右衛門の写真を参考に、隈をとらず、衣裳も従来の物とは違ったものを用意して、その成果を世に問おうとした富十郎の時平と、現在考えられる配役としては、最高の大顔合わせが実現した。昭和の終わりに、歌右衛門、梅幸、幸四郎、勘三郎、松緑、仁左衛門ら大幹部連中が、さまざまな芝居で見せた大顔合わせに心を躍らせた頃のことが思い出された。まさに歌舞伎を観る醍醐味とはこれだったのだ。

 大きくて特徴のある顔を持った六頭身の体躯、実年齢を感じさせない前髪姿の似合う若さ、芝翫の桜丸こそは、1年以上に渡る「歌舞伎座さよなら公演」の白眉である。そして、やがて失われてしまう歌舞伎美の極致でもある。理屈だけをいったら、けっして美しくもなければ、若くもない。むしろグロテスクである。それを美しいと言い、若いと語ることができるのが歌舞伎の美である。これは忘れないでおこうと思う。

 役者になって70年以上。大ベテランになっても新しい表現に挑戦しようという富十郎の姿勢にも敬服した。型があるのが歌舞伎だとばかりに、やたらと型、型と言いたがる風潮に逆らい、自ら演じることによって、別の演じ方を残そう、歌舞伎の可能性をみせようとしたのであろう。歌舞伎が実はいかに自由なものだったか、改めて知らした意義は大きい。

 従来の奇怪さを表現しようと藍で隈をとった典型的な公家悪の姿ではなく、隈をとらずに金色の衣裳、白い長袴をさばいてきまるなど、単なるおつきあいの役ではない自己主張があって面白くみた。衣裳や化粧の力を借りずに、藤原時平という悪の権化を表現するのは富十郎の存在あってこそなので、今後も定着するようなものではないが、長く記憶されていい時平であったと思う。

 最近になって共演がふえた幸四郎と吉右衛門の兄弟による松王丸と梅王丸である。実に20年ぶりとのことだという。本物の兄弟であるばかりでなく、立役として拮抗した役者同士であればこそ醸し出される興奮があった。残念なのは、荒事を演じるには吉右衛門の後ろ姿に老いが目立ち始めたことである。正面からは立派な梅王丸ではあるが、背中には隠せない老いがある。吉右衛門も歳をとるのかと、当たり前のことながら驚いた。

 むしろ年上の幸四郎の方が元気だったように思う。この大顔合わせの中にあって、一歩もひけをとらない存在感。周囲の充実にも助けられて、役者の大きさが増したように思えた。空前とはいわないが、絶後の舞台になることは間違いがない。新しい歌舞伎座で、これを超える芝居を観ることができることを、ただただ祈るばかりである。

 『京鹿子娘道成寺』は勘三郎は道行から押戻までを演じる。押戻しは團十郎で、歌舞伎座では5年前の勘三郎の襲名披露以来の上演である。先頃は、三津五郎・大和屋の娘道成寺が傑作だっただけに、歌舞伎座最後の娘道成寺の重責に心中期するものがあったに違いない。かつてのような身体能力の限界に挑むような激しさは影をひそめ、精神性の深さの充足に重きを置いたようである。特に羯鼓を打ちながら踊る部分や振鼓を鳴らすくだりは、以前のような全力投球スタイルが姿を消し、変な目立ち方をしなくなっただけ進歩したということだろうか。本当は勘三郎らしくない大人の芸になってしまっているともいえるが・・・。
 
 それは義父の芝翫に学ぶことで、祖父の六代目菊五郎に肉薄しようとしているかのような勘三郎である。道行では扇をくわえ、両手で帯を持ち、鐘をきっと見込むくだりなど劇的に展開するかと思えば、懐紙を取り出して化粧をする振りの後、1枚の懐紙を丸めて客席へほうるところなど、勘三郎らしい愛嬌のある部分で観客を嬉しがらせて実に自在である。

 先月の奮闘公演で、声をつぶしてしまったのか耳障りな勘三郎な発声になった台詞での所化との問答があって、三宝にのせた金烏帽子を持って上手から登場する所化は、今年90歳になる小山三であった。先月の『大江戸りびんぐでっど』に続いて美味しい登場の仕方である。現役最長老?の弟子への愛情を持つ勘三郎の優しい心に打たれるものがあった。

 金烏帽子をつけ、中啓を持ち花道まで行く勘三郎の白い足袋の爪先が、何か別の生物のように美しい。真女形ではなく、所化が言うように絶世の美女ではないのだが、振り出し笠、手拭いを使っての「恋の手習」のクドキなど、肉体を通じて観客に語り続ける踊りが進むにつれ、どんどん美しくなっていった。これは腕のある証拠で、苦しいに違いない形も難なくきめていき、興奮を呼び起こしていった。

 鐘入りでは、鐘が下りるのと同時に鐘に飛び込む離れ技?を披露した。所化の祈りの振りや鱗四天の「とう尽くし」など、普段の娘道成寺では観られない場面で興味深い。やがて蛇体となり團十郎の押戻しである大館左馬五郎と対峙。立ち回りなど、意外に力感があふれてこないで、さしたることもなく幕になってしまって物足りなく思った。團十郎が「にらむ芸」を派手目にみせて、勘三郎はは押さえた芸よりも、発散する芸の人なのだと感じた。

 初春歌舞伎という普段よりも華やかな興行で、福助と染五郎の『与話情浮名横櫛』から「木更津海岸見染の場」と「源氏店妾宅の場」である。大顔合わせの興行であっても、最後の演目は新しい歌舞伎座の中心になるだけに、中堅と花形に任されたようである。

 このところ舞踊以外は、何を演じても品がなく、おかしな方向へ爆走ぎみの福助のお富だけに、いかに崩れるのか大いに心配させられた。相手役の染五郎も初役ではないものの共演は珍しく、意外な組み合わせといってもよい配役で舞台成果はなかなか予想できないものだった。 

 美男美女で演じられることの多いお富と与三郎だが、福助のお富には、そうした意味での美しさには乏しい。他の役者が、美=清という図式で演じる中、福助のお富には、身請けされた元・深川芸者という前身がよく理解できる雰囲気があって独特である。染五郎との浜辺での出会いも、清純な若者同士といった風ではない。濃厚な色気が漂う年増女と、心ならずも放蕩三昧している若者の、肉体と精神が満たされない者同士の出会いといった風情が面白い。 与三郎の羽織落となどお決まりの型なのであるが、染五郎が演じると美女に見とれて我を忘れることのおかしみよりも、未来への危うさが見え隠れするのも印象的だった。

 妾宅になると、いかにも囲い者という立場に安住していている自堕落さといったものがお富に感じられるのも福助ならではである。自分を取り巻く状況は大きく変化しても、お富自身は、あまり変わっていないかのようで、染五郎の与三郎が恨み事を並べたくなるのも納得である。歌六の多左衛門が呼ばれて出ていき、誤解のとけたお富と与三郎が抱き合って幕になるという判りやすいものだが、この二人は前途多難な未来だと思わせて、手放しで喜べない感じなのも、この二人ならではである。

 こうもり安に彌十郎、鳶頭金五郎に錦之助など、これまた中堅に脇役が任されたようだが、福助の珍しく節度ある演技と独特の雰囲気の役作りに助けられたか、劇世界が崩壊するどころか、なかなか魅せる芝居になっていて、成功していたのは何よりだった。

2010-01-07 22:41
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再び勘三郎へ [歌舞伎]2009-12-29 [歌舞伎アーカイブス]

 天使が今まで観た中で最も番感動した舞台芸術をジャンル別にベスト1をあげてみると、クライバーが生涯最後に指揮した歌劇『ばらの騎士』の千秋楽の公演。シルヴィ・ギエムが日本で初めて踊ったベジャールの『ボレロ』。そして、父親である先代・勘三郎の病気休演により代役で演じた『俊寛』である。番外は新之助時代に十代で踊った海老蔵の『鏡獅子』初演の初日。

 クライバーの『ばらの騎士』の完成度の高さを言うまでもないが、たぶん人類が到達した最高峰の音楽体験であったことは間違いがない。あの日、東京文化会館に集った2300人のひとりであったことの幸運を今も神様に感謝している。

 20世紀最高の振付家のひとりベジャールの最高傑作「ボレロ」と、100年に一度のバレエ・ダンサーであるシルヴィ・ギエムの絶頂期が重なり、かつてない衝撃と感動に包まれた日本での初演。その後、何度も踊っているが初役の時の感動を越えることは遂になかった。

 そして先代・勘三郎の最後の舞台となった「俊寛」を代役で務めた勘九郎の何かがのりうつったかのような演技。突然の代役、正月興行の主要演目の主役としての責任、大幹部との共演の重圧、若いながらも立派に演じた姿を生涯忘れないと思う。その後も何度も演じているが、初演の感動を越えることがなかったのは「ボレロ」と同じである。来年の二月の追善興行でも上演されるようだが、果たしてあの日の感動を越えられるのだろうか?

 最近の勘三郎は、気心の知れた?共演者だけで一座することが多い。本当なら確執が噂される吉右衛門あたりと舞台の上で火花を散らして欲しいし、それが本人のためだと思うのだが、共演の実現は困難なようである。宇野信夫の「巷談宵宮雨」で竜達と太十とか、「沼津」で平作と十兵衛とか…。先代と吉右衛門の好演が目に残るだけに、共演すれば歌舞伎の可能性が、もっと広がるように思うのに残念である。本人が駄目なら、せめて勘太郎や七之助を5月新橋演舞場の吉右衛門に一座させるのが親心だとも思う。もっとも両方と共演する福助の演技はアレ?なのだが…。少なくとも勘三郎と共演するよりも、吉右衛門と共演する方が安定しているように思えるのは気のせいだろうか?

 歌舞伎座最後の「京鹿子娘道成寺」は勘三郎へ託された。鈴太鼓を叩きつぶすほど(実際に壊したのを目撃した)の迫力のある踊りで、爽快感が味わえるのが勘三郎の特徴?のようだが、一方でライバルの三津五郎の「京鹿子娘道成寺」という渋い佳作もあった。果たして勘三郎が、三津五郎以上の感動へ導いてくれるのかいなか、初日の舞台が待たれる。

 松竹にとって興行価値がある人だけに、玉三郎らと同じく国立劇場の歌舞伎公演へ長らく出演していない。逆に国立劇場で何を演じさせる?と問われても答えに窮してしまう。国立劇場へ出ることに意義があるとも思えないが、勘平?、忠信?、知盛?、松王丸?新三?茂兵衛?いずれも第一人者とはいえない。法界坊も先代同様の演じ方では、もう演じないのであろうか?酒呑童子も…。弥市?猿源氏?他に誰も演じ手がないから演じつづけているだけなのかもしれない。

 コクーン歌舞伎、平成中村座、その海外公演、野田秀樹、渡辺えり、宮藤官九郎らとのコラボ?ここまで来てしまったら、もう後戻りはできないのだと思う。歌舞伎座が閉館となって、その活動にはますます拍車がかかるのではないだろうか。ウケをねらって、芝居がどんどん笑いの方向へ突き進んでいるのと、何をやっても同じ演技パターンになっているのも心配である。歌舞伎の本流を歩むべき人は、どこへ行こうとしているのだろうか? 三島由紀夫は、「くさやの干物のような味」のする古風な女形の演じる歌舞伎を愛したというが、文字通り「くさや」を登場させて悦に入っているような舞台を歌舞伎座に出現させて喜んでいて欲しくはない。

2009-12-29 08:07
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大江戸りびんぐでっど ネタバレ大会! 其の陸 [歌舞伎]2009-12-25 [歌舞伎アーカイブス]

 なんとかたどり着いた大詰?ここも初日はグダグダで、何がなんだがわからない幕切れになってしまって大失敗だったように思う。二度目に観たときには、一応、筋を通した感じになって、観客に何も考えさせないようにしようという策略なのか、ぞんび達の総踊りになって、上手、下手、中央にご挨拶という、宝塚形式?の簡略なカーテンコールに突入して幕という、さらに締まらない終わり方。本当にこれでいいの?強烈な毒が消え去って、クドカンも結局は歌舞伎に屈した形となった。歌舞伎チャンネルに収録していたから?いくらなんでも甘過ぎで、困難な運命を背負ったはずの半助と七之助の結末が、「よかった、よかった。めでたし、めでたしって…」

 さて、最も信頼する友人からメールが届いた。

クドカンは映画でもなんでも毎度てんこ盛りが流儀の様ですが
得意の人情話と笑いに絞って攻めてくれればいいものを変に「時代」というか
時事ネタを取り入れようとして張り切りすぎの失敗作という気がします。
才能のある人なのでもっと年を取ってからでもまた別のアプローチで?
歌舞伎に挑戦してほしいと思いました。

 なるほど大人の反応である。世間様の評価はこういうものなのかもしれない。
でも天使は言う「クドカンは二度と歌舞伎座に来るな!すっこんでいろ、このボケッ!」
天使にあるまじき、悪口雑言、大変失礼しました。

五場の1 富岡八幡宮
五場の2 永代橋のたもと

主な配役
半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
お静…芝のぶ
お菊…萬次郎
喜瀬川…福助
四十郎後に渡辺小兵衛…三津五郎

 幕前での芝居がつづいて、幕の背後では舞台転換の気配。ゾンビの派遣の活躍で大工の辰は職を失ってあれぎみ。永代橋の工事もゾンビ達が請け負ったようである。夫を弁護するために、芝のぶは女形にあるまじき胴間声で、福助に食ってかかるなど、ある意味面白く、驚きの演技があって、当方の頭は真っ白に…。

 そこへ永代橋が落ちたという知らせがあって、幕が飛ぶと上手と下手に永代橋があって、真ん中が落ちている態。橋の上には人が右往左往している中にゾンビ達も。とうとう大工の辰もゾンビの仲間入り。橋のこちらには半助、あちら側にはお葉。後ろから押されて人々はどんどん川に落ちていく。

 半助はお葉を助けるために、川に落ちた人間をゾンビ達に襲わせ、川中をゾンビだらけにする。そして戸板にお葉をのせ、上手から下手へゾンビの頭の上を伝わせて下手の半助のもとへ。とんだ「因幡の白ウサギ」で、下手に到着する前にお葉もゾンビになるオチかと思ったら…。「だまされた!」と怒るゾンビ達。

 結局、ゾンビの半助と人間のお葉は固く結ばれるのでした…。主要な登場人物がすべてゾンビになってしまったなか、半助も新吉もゾンビなのに、何故にお葉は人間でいられるのか?そもそも最愛の人を殺したはずの半助を愛せるのか?この結末の意味は?謎だらけで初日の幕は閉じたが、歌舞伎チャンネルの収録日には、のんきにゾンビ達の総踊りになって、笑顔でご挨拶って…。初日との落差に椅子からずり落ちそうになった。やっぱり、初日は公開有料舞台稽古だったらしい。

2009-12-25 00:03
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大江戸りびんぐでっど ネタバレ大会! 其の伍 [歌舞伎]2009-12-24 [歌舞伎アーカイブス]

 さて、ここからは初日には滑りまくりで、何コレ?状態だった場面。二度目観たときには可笑しくはないけれど、なんとか崩壊を免れていたように思う。途中から稽古に参加だったらしいが、獅童の強烈な個性も活かされずに無残な結果に…。オペラの新演出でも、どこかにひとつは落とし穴になってしまう場面が発生するものだが、今回は、ここだったようである。俳優祭でもないのに、コント以下の芝居で、沈黙の客席となった初日の光景は、歌舞伎座さよなら公演の中でも、長く語り継がれることになるだろうと思う。

四場の1 杢蓮寺のお堂
四場の2 新島・くさや小屋の中(回想)
四場の3 杢蓮寺のお堂

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
中海和尚実は死神…
与兵衛…亀蔵
お染…扇雀
新吉…勘三郎

死にそうな人間がいるということで、ソンビ達は杢蓮寺のお堂に大集合。獅童が扮する中海和尚が蓆がかけられた瀕死の病人?の前にいる。

「ハゲはいいすぎだろう」
「バッテラか!」

とか妙にテンションの高い獅童なのだが、ギャグがすべて滑ってしまって客席が凍りつく。和尚が実は死神ということで骨が描かれた全身前タイツ姿に変身。

「死神よ~ん」
背中に書かれた文字で「シ・ニ・ガ・ミ」
「すわるぞ、この野郎」

たぶんヤンキー・ネタなんだろうが、全て滑りまくって客席はドン引き。死神が死にかけている病人の頭の方に座ると死に、足元にすわると生き返るというので、ゾンビ達は布団を動かしたりと軽いネタ。そこへ半助が登場し、ゾンビ達は死神を食べようと追って全員が退場。死にかけていたのは新吉だった。実はゾンビだと思っていた新吉は生きていたのである。

半助は新吉の頭を岩で砕こうとする。

新島の殺人シーンを再現ドラマ風に

くさや汁を持ち出す半助。ストロボで新島の殺人場面を再現。

半助「新吉を殺したのは俺だ」とお葉に告白。
お葉「知っていました。知っていて一緒になったんです」
半助「許してくれるかい」
お葉「生きていくには、忘れるしかないじゃありませんか」

ところが、死んだと思っていた新吉が傷が浅くて実は生きていて、半助は滑って頭を打ち死んだといことが判明。そこへ、くさや汁を浴びて「ぞんび」に最初に半助がなったのである。確かに半助には子供ができない。新吉は半助を噛むが何も変化が起こらない。半助は死んでいるのを忘れていたのだとか…。新吉は切腹し、内臓が腹から飛び出す。半助はそれをむさぼり喰らう。「うめえ~っ」

 死んだと思っていた人が実は生きていて、生きていると思っている人間が、実は死んでいたなど、どこかで観たようなアイディアだが、死んだ人間がなぜくさや汁で生き返るのか、あるいはくさや汁で生まれ変わるのはでまかせなのか、なんだか判ったような判らないような…。これから勘三郎が、勘平を演じるようなことがあれば、必ず内蔵を引きだして果てる場面を思い出してしまいそうである。

ここで幕が振り落とされ、次の「富岡八幡宮」の場となる。
(つづく)


2009-12-24 01:02
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大江戸りびんぐでっど ネタバレ大会! 其の肆 [歌舞伎]2009-12-23 [歌舞伎アーカイブス]

 さて、ここまでのおさらい。新島の「くさやうり」のお葉は、江戸の芝の浜でくさやを売っている。お葉の亭主・新吉が何者にかに殺されてしまったからである。同じ職人仲間だった半助(何をやっても中途半端で半人前の職人だったらしい)が新島からお葉を追ってやってきて、一緒になろうと誘うが、お葉は拒絶する。

 大工の辰が四年に一度遊ぼうと品川の遊郭にあがると、そこへ「ぞんび」が出現。「ぞんび」は「らくだ衆」とも呼ばれ、「ぞんび」は生きている人間を喰らう。喰われた人間は「ぞんび」として蘇る。おかげで、江戸には「ぞんび」がどんどん増えていく。

 「ぞんび」は「くさや汁」を死人にかけたことで出現したことを半助が語る。どうやら、殺された新吉がくさや汁を浴びたことで最初に蘇ったらしい。「ぞんび」は殺しても死なないが、額が弱点で金槌でなぐると大人しくなったり、人間が「くさや汁」を身体に塗ると、その臭いから同じ仲間だと思って襲わない。

 「ぞんび」達は火焙りになりかけるが、半助は「ぞんび」を「はけん」と名づけ、南町奉行公認の人材派遣業を始めることになる。

 とここまでが、これまでの筋書。この程度なら別に問題ないと思うかもしれないが、歌舞伎の舞台としては生々しすぎる表現と、下品さが舞台を支配して不愉快極まりない。特に「ぞんび」の造型と、言語や動きなど障害者を侮辱するような演技の数々に配慮がなさすぎる。それなのに「大江戸りびんぐでっど音頭」を踊るときには、全員元気いっぱいで普通に踊る神経って…。理解できない。あれに何か意味ある?理解したくもないけれど。

 何が不愉快かって、舞台なので本物のくさやの臭いはしないけれど、「ぞんび」はくさや汁から生まれたので強烈な臭いがしているはずである。「ぞんび」=「はけん」=「臭い」っていう構図に何度も嫌悪感が走った。「臭い、臭い」と言われるたびに、さまざまな感情が浮かんできた。これに鈍感でいられる人は、ある意味、幸福なのかもしれない。

 三場 深川はけん長屋「はけん問屋」 

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
石坂段右衛門…橋之助
女郎 喜瀬川…福助
四十郎…三津五郎

 半助とお葉は所帯を持って「ぞんび」の人材派遣を営み大繁盛である。危険な作業もいとわないし、口数も少なくもくもくと働くので重宝されている。永代橋の架け替えにも「はけん」が使われている模様である。そこへ女郎・喜瀬川がくる。実は心中して海に飛びこんだのだが、昔は海女をしていた喜瀬川は溺れなかったのである。

打ち掛けには、採取した海産物が…・サザエを渡し「サザエでございま~す」

 お染に土左衛門の代役を頼みに来たのである。

「替わってくれって、遅番、早番じゃないんだから」と言いながらも、お染は頭から水をかぶって、代役に派遣されていく。

 そこへ橋之助演じる武士・石坂段右衛門が鶴松の若様を連れてくる。敵討ちの助太刀を頼みにきたのである。ここで、若様は小便を漏らす。歌舞伎座の舞台を仕掛けとはいえ、小便で濡らしてしまうのは…。これって趣味の問題?理解不能である。実は四十郎が敵なのだが、それは明らかにならないまま、三人は去る。まるまるカットでいいような話なのだが、半助とお葉を二人きりにさせるためのエピソードだとわかる。くだらない。

 ここから、半助とお葉のラブ・シーン?島へ帰りたくないと語る半助。島では怠惰な生活で「生きる屍」同然だったと…。これが後半の伏線?らしい。お葉は、「来る日も来る日もあかぎれつくって…」なんて殊勝なことを言いつつも、「島に帰るならお土産が、私、子供が欲しいの」「帰るときは三人で」とか、甘い場面になるはずなのだが、全然雰囲気がでていない。この作者は女を描くのが苦手のようである。
(つづく)

2009-12-23 00:02
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大江戸りびんぐでっど ネタバレ大会! 其の参 [歌舞伎]2009-12-21 [歌舞伎アーカイブス]

 さて舞台は、ここからが観客の神経を逆撫でする様々な差別意識が見え隠れしている場面の連続。たぶん作者は、受ければいいとか、笑いがとれればいいとか、とっても安易な気持で筆をすすめたと思うのだが、無意識なだけに余計に罪は重いと思う。

二場の1 南町奉行所二場の2 新島・くさや小屋(回想)二場の3 南町奉行所二場の4 街道

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
根岸肥前守鎮衛…彌十郎
辰の女房 お静…芝のぶ
町娘…小山三
佐平次…井之上隆志
与兵衛…亀蔵
大工の辰…勘太郎
お菊…萬次郎
四十郎…三津五郎
新吉…勘三郎

 舞台は回って南町奉行所の場。背後の大きな襖が動いて多場面を構成。ここではゾンビが誕生した理由が述べられる。いわく「ゾンビ」とは、あまりの臭さに鼻の存続が危ぶまれるから「存鼻」=ゾンビなのだとか…。
彌十郎は「ああ、いいよ。楽にして」が口癖のC調な南町奉行。ゾンビの反省のポーズに「そんなもの猿でもできる」に答えて「かわいいかも」とか…妙に軽い。ゾンビに喰われそうになって「めちゃめちゃ、びっくりした」とか。

 ゾンビの説明で、水桶に入った水を柄杓でゾンビの手にかけ指文字で「水」「水」とやり、ゾンビが「うぉ~」じゃなかった「み、ず」と答える場面。これはウイリアム・ギブソン作の「奇跡の人」の最も感動的なヘレン・ケラーが物には全て名前があるということを理解する有名な場面である。初日は多くの人が理解できなかったからか、二度目に観たときには「奇跡、奇跡の人だ」と染五郎がフォロー。三重苦を克服した偉人であるヘレン・ケラーとサリバン先生の有名な場面をパロディにもならないような程度の低いコントへのパクリで、しかもほとんど笑いがとれない最悪の結果。さらにゾンビ=障害者というイメージだけを植え付けた最も不愉快な場面となる。

 ゾンビがこの世に出現した原因は「くさや汁」にあるという珍妙な説を説明するために再現ドラマが挿入される。

「ばりばり女房っす」とか「現金書留です」とか「どうかオメコ、オメコぼしを」とか、全然笑えないギャグで脱力させられた。結局、半助が新吉を殺したのだが、死んだはずの新吉はくさや汁を浴びてゾンビ第一号として蘇る。すなわち「くさや汁が死んだ人間を蘇らせたという訳である。

 ゾンビは生きた人間しか食べないし、食べられた人間はゾンビになるので、どんどんゾンビが増えていくのである。新島はゾンビだらけになるが、船で逃げる途中に、飼い犬のコロに噛まれた与兵衛はゾンビになってしまう。

 ゾンビ=死にぞこないの図式が成立。生命についての定義らしき青臭い台詞あり。

奉行とゾンビは心を通わせ?E.Tのように指と指をくっつけるギャグあり。「これいいかも」
火あぶりにされかかったゾンビ達だが、結局は死人の人材派遣が決定。ゾンビ=らくだ衆=ハケンと呼ぶことに。

いくらなんでも、死にぞこない=ゾンビ=らくだ衆=派遣社員という図式の成立は不穏当である。そこに何の痛みも感じないでスルーできたとしたら、社会的弱者に対する思いやりに欠け、作者や役者同様に、精神構造に大いに問題ありである。少なくとも、非常に不愉快に感じた人がいたことは忘れない方がよい。

 駱駝の馬太郎、手斧目の半次、紙屑屋 久六という歌舞伎の「らくだ」でお馴染みの面々が何故か死人にカンカンノウを踊らせにくるが、あえなくゾンビの餌食に…。勘太郎がマイケル・ジャクソンの真似をして踊る。なかなかファンキーな感じがでていて良いのだが、完全に浮いていて滑ったギャクだった。女郎買いが、4年に一度の自分へのご褒美だとかなんとか。

 新吉の勘三郎が「情けねえ」と花道へ進む。そこへ町娘に扮した89歳の小山三が登場。「わたし恐いわ。わたし、まだ死にたくないわ」勘三郎「お前の方がこわいよ」と軽く笑わせて消える。
(つづく)

2009-12-21 00:39
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大江戸りびんぐでっど  ネタバレ大会!其の弐 [歌舞伎]2009-12-20 [歌舞伎アーカイブス]

 たぶん、この場面に作者は一番力を入れて演出したのではないかと思う。近頃、怪談を上演すると必ず劇場内が爆笑に包まれるのだが、今回はゾンビの初登場場面で場内が悲鳴というか驚きの声が上がった。ここは成功だったし効果的。ここだけは誉めてあげたい。それだけというのが辛いが…。

 問題なのはそれ以降である。歌舞伎の語法といえば、どんなに陰惨な殺人場面でも洗練があることである。生理的に生々しい場面は御法度である。それは男女の性愛についても同様。そのものズバリの表現は絶対になしである。そして今回のゾンビ達の造型は、いくらなんでも凝りすぎである。役者魂が高じて勘太郎のように、ゾンビになってから、金色?のコンタクトレンズを入れてゾンビになりきるくらいならいいのだけれど…。

 映画のゾンビものなら観ないという選択肢もあるが、舞台は観るまでは何がでてくるか判らないのである。ゾンビファン?である亀蔵の与兵衛の頭部は脳みそが露出。ある者は目玉が時計の振り子のようにブランブラン。アゴが溶けていたり…。ゾンビと「マイケル・ジャクソンのスリラー」は違うというかもしれないが、映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」に登場したモンスター達には自己規制があって、洗練があった。だからダンスも美しい。それを完全にパクッた今回の「大江戸りびんぐでっど音頭」やら「はけん節」はゲテ物以外の何ものでもない。

 ある場面では、ゾンビの額を金槌で打ち、血がドクドク。もう生理的に血が嫌いな天使には受け入れがたい。別の場面では赤い布を使っていたりするのに、何故ここだけ?後の場面では内臓もでてくるし…。生理用品やトイレ洗剤のテレビCMでは、当たり前のようにそのものズバリをださずに、食事時でも視聴可能なように洗練があり、配慮がある。今回のゾンビの造型は生理用品やトイレ洗剤以下だった。

 さらにゾンビ達の演技も問題である。あまりに身体障害者や精神薄弱者への配慮を欠いていて不愉快な思いを何度もさせられた。これが普通にスルー出来る人の精神構造って、どこかのブログ市長と変わらない。

一場 品川の遊郭「相模屋」

主な配役

剣客四十郎…三津五郎
女郎 お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
遣手 お菊…萬次郎
女郎 喜瀬川…福助

 二入がくさや汁をもって花道へいく前場から続いて舞台転換。基本的には花道で演技している間に場面が変わっていくという形式が続く。品川の遊郭「相模屋」の賑やかな場面の描写があって、勘太郎の扮する大工の辰のいる部屋に変わる。4年に一度の廓遊びということで張り切っているらしく、左手だけの腕立て伏せ状態で、自分の尻を打っているという、好感度?がどんどん下がっていく珍妙な演技。

 そこへ元カクスコの井之上隆志が演じる佐平次が登場。次々に相方を変える辰との会話。
「どうも決め手にかけるんだよね」
「チェンジ。チェンジで丑みつどき」

「お染(扇雀)はおふくろと同い年」 ←野崎村を上演しているときに何故お染?

佐平次「めんどくせいな、あんた」
辰 こけしを手にして「うぃ~ん」
佐平次「好感度さがったし」

 早くしないとらくだ衆がでてくりぞと辰を脅す?佐平次。らくだ衆の説明で辰の恐怖を盛り上げる。背後の障子にシルエット。歌舞伎ではお馴染み?の場面で、お染がネコをくわえてでてくる。お染は屈伸運動?

お染「チェンジですね」

 辰はらくだ衆の恐怖でお染で妥協するが、もちろん、これはお染と佐平次との計略であることが判明。
ここからはお染と辰の濡れ場?なのだが、あまりにナマナマしい騎乗位の体位を披露。扇雀の女形生命が危ぶまれるほど下品すぎ…。夜の部の「引窓」では女房お早を演じているのだが、前身が遊女だったという設定なので、どうしても、この痴態が浮かんでしまって困ったくらい。

「あっは~ん」
「熱いわ」
「年増をなめんなよ。年増の性欲なめんなよ」などと絶叫。

 そこへうめき声。背後の障子にゾンビ達の手が一斉に出て場内に悲鳴が…。ソンビ登場し、逃げまどう辰とお染、舞台が回って「相模屋」の玄関へ。そこで踊られる「大江戸りびんぐでっど音頭」なる総踊り。スピーカーよりショボイ音で流れ、振付も盆踊り並みのゆるさで脱力。

 そこへ福助の喜瀬川が登場。お染がらくだ衆=ゾンビに捕まり噛みつかれ、お染自身もらくだ衆になってしまう。らくだ衆は生きた人間を食らい、喰われた人間はらくだ衆になるというのが説明される。御札がらくだ衆の額に張られるが、らくだ衆はそれを食べてしまう。そこへ橘太郎が扮する陰陽師が登場。祈祷めいたことをするが、全く効かずにらくだ衆の一人に指を舐められて、あっという間にらくだ衆に。さらに何故か歌舞伎の押し戻しの扮装をした歌舞伎役者が青竹を持って花道から登場。これもアッという間にらくだ衆に捕まって、こちらは手足がバラバラにされてしまう。

 「先生」と呼ばれて三津五郎扮する剣客四十郎が登場。
「とぅーす!」(原典はオードリーの春日?)

ここで喜瀬川を意識して都々逸「三千世界の鴉を殺し 主と添寝がしてみたい」を披露。
四十郎は首をずっと傾げているが、この角度が一番いいとかなんとか。

らくだ衆を全員あっという間に切り捨てるが再び起きあがるらくだ衆たち。
そのくり返し。
「先生、今日はちょっと疲れているから」と弱気な発言。
起き始めたらくだ衆がふり返るとガバッと死んだふりをする。出来の悪いコントみたい。
結局、四十郎もゾンビに仲間入りで片腕をもがれる。
「丹下左膳みたい。腕が違うけどね」といったような台詞があり。

生きる屍は、金槌で眉間を打つしばらくは大人しくなるのが判明して、次の南町奉行所の場面へ。
(つづく) 

2009-12-20 09:33

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