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マルセル・マルソーの死 [エッセイ]2007-09-24 [オペラ アーカイブス]

 マルセル・マルソーの訃報を知る。田舎の演劇好きの高校生にとってはマルセル・マルソーを観るのが夢だった。演劇雑誌で写真は眺めてもパントマイムってなんだかわからなかった。白塗りで道化の格好なのに悲しそうな顔。彼は一体どんなことをするのだろう。想像してはいつか実際に見る日を夢見ていた。

 有楽町の読売ホールで初めてみた。笑いといえばドリフかコント55号が好きだった。言葉を用いず身体だけで表現する笑い。それも単純ではなくとってもとっても深い笑い。面白いかといわれれば、正直あまり面白くないのだが、あとからジワジワときいてくるのである。気がつけばいつも感動していた。あの感動は一体なんだったんだろう。

 国立劇場に出演したこともあった。ご丁寧に花道まで作って…。七三で演技でもするのかと期待したが、「ビップ」の扮装で歩いて来るだけだった。花道を歩くことが目的だったみたい。誰か花道の役割でも教えてあげればいいのに何アレ。だったのだけれど、彼にしてみれば国立劇場の花道を踏むというが念願だったのだろう。得意満面だったに違いない。子供みたいだけれど、芸人らしくていい。

 メル・ブルックスの無声映画という趣向の作品「サイレント・ムービー」で、全員が声を出さないという中で一人だけ「ノン!」と台詞があった作品があった。後にも先にも彼の声を聞いたのは最後だったかも。パントマイムの世界的な芸術家だけれど、彼の後継者っているのだろうか?日本に紹介されていないだけかもしれないが、芸は一代ということなのか。ご冥福をお祈りしたい。


2007-09-24 08:35
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ヴォツェック [オペラ]2009-11-22 [オペラ アーカイブス]

【指 揮】ハルトムート・ヘンヒェン
【演 出】アンドレアス・クリーゲンブルク
【美 術】ハラルド・トアー
【衣 裳】アンドレア・シュラート
【照 明】シュテファン・ボリガー
【振 付】ツェンタ・ヘルテル

【企 画】若杉 弘
【芸術監督代行】尾高忠明
【主 催】新国立劇場

【ヴォツェック】トーマス・ヨハネス・マイヤー
【鼓手長】エンドリック・ヴォトリッヒ
【アンドレス】高野二郎
【大尉】フォルカー・フォーゲル
【医者】妻屋秀和
【第一の徒弟職人】大澤 建
【第二の徒弟職人】星野 淳
【マリー】ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン
【マルグレート】山下牧子

【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 天使の初『ヴォツェック』は、ちょうど20年前のウィーン国立歌劇場日本公演だった。ちょうど2年前にウィーンで上演された際のライブ版がCDになり、LDになり、名作オペラブックスという音楽之友社から出ていた「究極の解説書」なるものまで買い求めて事前の予習を重ねた。ベルクの「ヴォツェック」は音楽史上初めて無調で作曲されたオペラで、20世紀になって書かれた最もすぐれたオペラの一つに数えられる作品ということだが、かなりハードルの高いオペラだった。

 あのNHKホールの巨大な舞台でなければ再現できなかったらしいいが、ベーレンス以外の出演者は子役まで同じキャストだったことと、CDの音楽にあわせ何度も練習した舞台転換もスムーズで、LDそのままに再現されていた。さすがにベルクのオペラでは観客動員が困難だったようで、無理矢理チケットをもらってシブシブ来たのか終演後に駅のホームで困惑の表情を浮かべた観客を何人も見た。今回の公演も、たった4回の公演なのに、1階席後方には空席が目立っていた。日本の観客は正直というかなんというか…。けっして愉快な気分になれる物語ではないし、音楽も難解。S席23,100円を支払うのに相応しいかどうかは、確かに疑問ではある。

 あの「軍人たち」をレパートリーに取り上げた故若杉弘芸術監督の再び意欲的な作品である。昨年バイエルン州立歌劇場で初演された最新の演出を日本で観られる貴重な機会となった。結論から言うと、高水準のベルクの『ヴォツェック』を体験したけれども、大きな感動には至らなかった。もともと救いのないオペラなのに、さらに鋭い演出で救いがなくなり、まったく金縛りになったように舞台を凝視し、身体を硬くして見たので、大きな疲労感と何故か短い上演時間なのにお尻が痛くなった。相当力が入っていたようである。観客に極度の緊張を強いる舞台だったからなのだろう。そうでなければ、お隣の観客のように眠ってしまったほうが幸福だったかもしれない。

 カーテンコールには、指揮者がゴム長靴を履いて出てきた。舞台一面が水深数センチの水たまり?というか床上浸水になっていたからである。場面によっては照明が反射して美しい輝きを見せるし、中空に浮かんだ舞台装置が映り込んで夢のような表情を見せるし、悪くない工夫なのだが、すでに今シーズンの『オテロ』で、さらに大掛かりに水を使った演出を見ているので、残念ながら「ああ、またか」という感想しかなかった。

 全編を通じて、不安定に中空に吊られたマリーの家になったり、医者の研究室になったりする家の形をした巨大なボックスが前後と上下に移動して各場面を描き出す。一切の無駄が剥ぎ取られて必要最小限のものしか置かない簡素な舞台である。舞台後方と上手と下手の側面には半透過性の幕があって、後方から照明が当てられ、観客の不安をかきたてる簡素ながら雄弁な舞台装置だった。

 不安をかきたてるのは舞台美術ばかりではない。全体が大掛かりな現代美術のような舞台で、アクセントは客席に背を向ける黒い衣裳をつけた失業者?の一団である。時々水の床にぶちまけられるパンや小銭を奪い合ったり、バンドを乗せた舞台を四つんばいで支えたりと、現代オペラにふさわしい味付けだった。

 出演者はヴォツェック、マリー、マリーの子供以外は、異様な怪物のようなメイクや肉布団の衣裳を身に着けていて実に醜悪。だが最も醜悪だったのは、マリーの子供だった。お猿の人形を持ち、感情も乏しいまま、様々な演技を繰り出す悪魔の子のような存在になっていて、余計に不安をかきたてた。

 壁にコールタール?で文字を書くのだが、ずばり「金!」とか、パパと壁に書いてヴォツェックに矢印を引いて、実は自分の父親は別人物ということを知っていて…などという演出があって、およそ誰にも愛情をしめそうとしないのである。なるほど、他の登場人物なのに、あの子には名前がないのである。「マリーの子供」という役名であって、「ヴォツェックの子供」でもなければ、「ヴォツェックとマリーの子供」でもないのである。それならば、死んだヴォツェックを足蹴にしたり、両親が死んだと聞いても関心をしめさないわけである。現代に生きていたら、クリスマスの食事にホテルの高級レストランに行っても、ずっとゲームをやっていそうな可愛げのない子供になるだろうと思った。演じた中島健一郎君はなかなかのハンサム君なのに、やることは相当にえげつない。母親であるはずのマリーに対しても実に冷たくて唖然とさせられ、救いのないなか唯一の砦ももろくも崩れ去ったという感じだった。

 歌手陣は、いずれも海外で「ヴォツェック」をレパートリーにしている歌手を集めたとかで大きな破綻がないのは何よりだった。日本人歌手も健闘していたように思うが、医者を演じた妻屋秀和以外には個性が乏しく、印象に残らなかった。指揮者は当初予定されていた若杉弘に変わってハルトムート・ヘンヒェンが振った。アバドのような圧倒的な感動はないものの、手堅い音楽を創り出していたというところだろうか。巨大な編成のオーケストラと合唱を要して、たった4回しか上演しないのでは採算は絶対にとれないないだろうが、若杉芸術監督の遺志が実現したことを喜びたい。国の予算が削られないことを祈りたいけれど、民主党って文化に対して、まったく理解がなさそうなのが心配ではある。今後は、こうした意欲的な演目が減っていくのではないのだろうか。


2009-11-22 07:23

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《声》 《マノンの肖像》 東京室内歌劇場 第124回定期公演 新国立劇場 小劇場 [オペラ]2009-10-11 [オペラ アーカイブス]

 上野の「蝶々夫人」が17時に終演して、急いで18時開演の初台の新国立劇場の小劇場に移動する。天使は小劇場でのオペラは初めてである。プーランクのモノオペラ「声」とマスネの「マノン」の続編、「マノンの肖像」を2本立てで上演した。舞台装置は細部に違いはあるものの共通で、室内歌劇場にふさわしい上演形態になっていた。

 舞台奥には「マノンの肖像」で登場する合唱団のための椅子が置かれていて、その頭上には日本語字幕がでるモニター?が吊り下げられている。その前には巨大な額縁の枠がつられていて、額縁の枠越しに日本語訳を読むことになる工夫がされていた。その額縁の下には、白い正方形の舞台が設置されていて3方向から観客が舞台を取り囲むという感じである。舞台上には、「声」ではベットに。「マノンの肖像」では大きなデスクに使われる長方形の台が傾斜して固定されていた。上手側には室内オーケストラが並んでいるという配置。

 「声」ではグリーンのベッドカバーがかけられていて、主人公の精神状態が不安定になるにつれ、ベッドカバーが後退していき、主人公が自殺する場面では、ベッドが黒一色になるという視覚面での工夫がされており、「マノンの肖像」では、白一色のデスクに変身するという具合で、同じ舞台装置なのに、まったく違った印象になっていたのは見事だった。

 指揮者の佐藤正浩がプログラムにも書いているように、日本人歌手にとってオペラはイタリア語やドイツ語で歌われ
のが主で、フランス語へのコンプレックスが歌手にあるのか、フランスオペラが「カルメン」以外はなかなか上演されないという現実がある。わずかな上演回数のために、イタリア語ならともかく、膨大なフランス語の歌唱と演技を覚えるという主役の松本美和子の果敢な挑戦は賞賛に値する。

 日本ではジェシー・ノーマンがモノオペラの公演で「声」を上演しており、東京文化会館へ天使は3回も通うほど感動した記憶がある。ヴィジュアル的には、ノーマンはまったく主人公にふさわしくないのだが、その声の威力で圧倒された記憶がある。それに比べれば、オペラ「欲望という名の電車」でも精神を病んでいく女性を英語で演じた経験のある松本美和子は、等身大の女性を演じて説得力があった。指揮者はもとより、舞台上手側に特設されたプロンプターボックスから、終始フランス語の歌詞をささやく声が絶えることがなかったが、大きな破綻もなく上演しとげたのは見事だった。

 別れたばかりの恋人の電話を待ち続け、電話回線が混線し、さらに元のサヤには戻らないのを思い知らされて、徐々に追い詰められていくのに説得力があり、睡眠薬を大量?に飲み、電話のコードを首に巻きつけて命を絶つ姿に心を震わされた。この作品の上演の成功は、何もかもが松本美和子のリアルな存在感と、的確な指示を与え続けた佐藤正浩の力によるところが大きいと思った。

 そしてフランス語で日本初演される「マノンの肖像」である。合唱とかつてマノンを愛した老デグリュー、その友人のティベルジュ、身分違いの恋に心中も決意する恋人同士の4名しか登場しない。指揮者の友人であるフランスの有名歌手であるジョルジュ・ゴーティエの存在感と、演技、歌唱が素晴らしい。当たり前だが、フランス語の台詞や身体の身のこなしが日本人とはまったく違うのである。

 若い恋人の女性オロールが、実はかつて愛したマノンの兄であるレスコーの娘だったというのがわかる大団円まで「マノン」の音楽が流れ、たわいないと言えば言えるような内容ながら、舞台全体にフランスの空気が流れた。

指揮:佐藤 正浩
演出:加藤 直
台本:ジャン・コクトー《声》/J・ボワイエ《マノンの肖像》
作曲:プーランク《声》/J・マスネ《マノンの肖像》

第Ⅰ部≪声≫女 松本美和子
― ― ―
第Ⅱ部≪マノンの肖像≫ ― ― ―
騎士デ・グリュー 三塚 至
ティベルジュ ジョルジュ・ゴーティエ
モルセール子爵ジャン 中村 裕美
オーロール 吉原 圭子

舞台美術 池田ともゆき
照明    齋藤茂男
衣裳    時広真吾
舞台監督 八木清市

言語指導 小川浩美
副指揮   辻 博之
演出助手 杉田健介
コレペティ 久保晃子
       平塚洋子
       江澤隆行

宣伝美術 スガワラユウコ
制作統括 和田ひでき

2009-10-11 00:09
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蝶々夫人 二期会 10月10日東京文化会館 [オペラ]2009-10-10 [オペラ アーカイブス]

 昨日から始まった二期会の「蝶々夫人」へでかける。三連休の初日ということもあり、さらにオーディションで選ばれた新人の公演ということもあって、2300人入る会場なのに、埋っていたのは1階席の中央ブロックだけで、1階から5階までのR席とL席のブロックには、ほとんど人がいない惨憺たる入り。ロビーには、銀座三越の着物フェアの展示があって、訪問着が何点か飾られていた。さらにベンツのE300が置かれていて、自分の買ったベンツをヨーロッパで試乗でき、さらに日本までデリバリーしてもらえるというサービスの宣伝をしていた。でも、二期会の客層にはマッチしていない販促だったような気がする。

 さて定評のある栗山先生の「蝶々夫人」の演出。オーケストラピットの背後の壁に蒔絵風の草花が描かれていて舞台床面から障子にまで広がっているという舞台美術。しだれ桜に囲まれ、歌詞の中にも出てくるように、南蛮船の大きな屏風が背景に置かれ、さらに柳、老松の屏風などが置かれるという、華麗な装飾でありながら、能舞台を思わせるような簡素な二重舞台で演技が繰り広げられるというバランス感覚が見事だった。

 第一幕は、下手側に障子屋台が、上手側に階段状になった丘?がある。舞台中央には結納品が置かれ、下手には長持ちが置かれている。蝶々さんの家紋が丸に揚羽蝶だったりと細部へのこだわりは日本人の演出家ならではだった。演出家生活50年以上であり、現役最長老であるだけに安心してみていられるのが何よりだった。

 最も感心させられたのは、蝶々さんの登場場面で、芸者の出の衣裳で登場した合唱団に続いて、蝶々さんが出るのだが、その衣裳の好みは「らしゃめん」そのもので、外国人の妻になる覚悟のようなものが感じられて、涙がポロポロと流れた。全編を通じて素晴らしかったのはこの部分だけというのは寂しい気もするが、オペラだけああって、いくら演出がよくても音楽が充実していないと感動には至らない。

 歌手で足を引っ張ったのは、ピンカートンの小原啓楼で第一幕の後半から幕切れまで、あんなに心のこもらない二重唱を聴いたのは初めての経験だった。あまりに何も伝わってこなくて、退屈の極みだった。ここで二人の愛のありようをみせておかないと、第二幕以降は蝶々さんの真の愛が生きてこない。それなのに、あの歌唱では何もかも嘘になってしまう。二期会でのテノールの人材不足は深刻だと思った。

 さらに呆れたのは、指揮者のジャック・デラコートの音楽づくりである。しばしばゲネラルパウゼが挿入されて音楽が止まってしまう。どうして、ここで音楽が止まるのか・・・。まったく理解しがたい指揮ぶりで、何もかもぶち壊していた責任の大半は指揮者にあるように思えた。そうかと思えば、無意味にあおるような粗雑な音楽を奏でて、せっかくの「蝶々夫人」が台無しになった。そう思うと、動員の面では観客の臭覚は正直なのかもしれない。


会場: 東京文化会館 大ホール(JR上野駅公園口前)
公演日: 2009年10月10日(土)14:00

開場は開演の60分前/上演予定時間:約2時間50分(休憩を含む)

指 揮:ジャック・デラコート
演 出:栗山 昌良

舞台美術:石黒 紀夫
   衣裳:岸井 克己
   照明:沢田 祐二

舞台監督:菅原 多敢弘
公演監督:高 丈二

蝶々夫:文屋小百合
スズキ:小林 由佳
ピンカートン:小原 啓楼
シャープレス:久保和範
ボンゾ:三戸 大久
神官:渥美 史生
ゴロー:栗原 剛
ケート:谷原めぐみ
ヤマドリ:境 信博

合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

2009-10-10 23:30

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オテロ 新国立劇場 [オペラ]2009-09-22 [オペラ アーカイブス]

 新しいシーズンの初日、新国立劇場の入口では、不当?解雇された元合唱団員と支援者が契約打ち切りに関してのビラを配っていた。公演前に抗議のビラ配りが効果があるとは思えないし、およそ日本の演劇界では雇用契約は不安定なのが当たり前なのが常識で、欧米並みの待遇を求められてもなあと気の毒に思う。ほとんどの観客がビラを受け取らないのと、劇場前に立ち並んだノボリ旗の醜悪さが理解できない点で、この運動の先は見えたような気もするが…。年間たったの230日出勤で年収300万しかもらっていなかったっていうのも世間一般の常識からかけ離れていると思う。年間135日も休暇がある仕事って何?解雇された合唱団員の実力が一切問題にしないで労働問題にすり替えているのも変だ。そもそもNBSの佐々木氏が指摘するまでもなく、国立オペラとうたいながら、専属のオーケストラも合唱団もバレエ団もないので、公演のたびにメンバーをかき集めているプロデュース公演が実態なのだと思う。これではお互いに認識のズレがあるのだから平行線で、いつまで経っても解決しないだろうと思う。

 さて、今回の初日の公演で、最も優れていたのは観客だった。ミラノ・スカラ座の『アイーダ』『ドン・カルロ』では、幕が降り始めたら手を叩いてしまい、音楽の余韻をぶち壊してしまう公演ばかりだったが、この『オテロ』では、各幕切れどころかデズデモーナの「アベ・マリア」でさえ拍手がおきずに、音楽の流れを止めなかったのが見事だった。こんなマナーのよいレベルの高い観客が集まるとは、新国立劇場のオペラも悪くないなあと認識を改めた。

 『オテロ』を演出したのは、イタリアの前衛演劇出身の映画監督であるマリオ・マルトーネ。プログラムのプロダクションノートによれば、オペラ演出のときには、台本の時代設定よりも「作曲された年代」に合わせたいと考えているそうである。今回も男性陣はヴェルディが作曲した19世紀後半のテイストがいかされているようである。女性は逆にシェイクスピアの時代に近いようで、その古風な装いの見た目よりも女性たちの行動の方が近代的だったように思えた。

 今回の特徴は、カットをしないことで第2幕には子供達が登場するし、第3幕のコンチェルタートも全部やるのだとか。第2幕はともかく、第3幕は演出の拙さもあって冗長な感じがしてしまい感心しなかった。そして舞台装置を細部に変化はあるが同じもので通したのも変わりばえがしない。

 幕が上がる前に舞台端から幕までの間に、港町?を思わせるさまざまな小道具が置かれていた。下手のオーケストラピットには、客席へ通じる手すりのついた通路が架けられている。本当はキプロス島が舞台なのでギリシャ方面のはずなのだが、ヴェネチアの社会を背景とした物語なのでという、いささか強引な理由で、ヴェネチアのような水上都市よろしく、舞台端から奧に向かって3メートルほどは陸?があるものの、それ以降はプールというか水たまりが特設されていた。 舞台中央のプールの真ん中には、三方のみを壁で取り囲まれた4畳半ほどのデズデモーナの寝室があり、場面によって回転するという凝ったつくりである。その寝室へは細い通路で結ばれていて、なんとなく小舟でも流れ着きそうな風情があった。それが潮来の水郷に見えなかったのは、上手と下手をヴェネチア風の建物が囲んでいるからで、色調といい、1階から3階にかけて遠近法で上に行くほど窓やドアが小さく描かれているなど芸が細かい。

 しかし、その舞台設定には欠点があって、登場人物が少ないときには問題がないが、第1幕や第3幕の合唱団員などが多く登場すると、アクティングエリアが狭く、奥行き使えないので、どうしても動きが平板になってしまう。運河?に掛かる太鼓橋?の高低差だけでは変化が出にくいのが残念である。第1幕は客席を海に見たてて合唱団が客席と正対して歌う。何しろ奥行がない舞台設定なので仕方がない。オテロはどこから登場のなのかと思えば、客席からブリッジを通って舞台に上がった。初めて「オテロ」を指揮するというリッカルド・フリッツァは、初日ゆえの緊張か舞い上がったか、ワンワンと音楽が飛び交うような落ち着きのないままスタート。オテロの第一声 Esultate!もなんだか気の抜けたような感じでがっかり。ステファン・グールドはワーグナー歌手で、イタリア・オペラのレパートリーは『オテロ』だけというのだから、違和感があるのは仕方がないのかもしれない。客席にも雷光が光ったり、裸火を盛んに使ったり、仕掛けでパッと空中に出現する本物?の花火など、見た目は工夫があって飽きないのだが、別に全部なくてもいいかなあという程度の効果しかなかった。

 妻屋、森山、久保田と藤原歌劇団の公演かと思うほど、脇役は藤原色が強いのだが、存在感のないカッシオのブラゴイ・ナコスキは別にして、主役が三人とも好調なのはなによりだった。最初はアレッ?という印象だったステファン・グールドも二度目の登場からは別人のように調子を取り戻し、最後まで楽しむことができた。歌手の奮闘で、なかなレベルの高い公演となったのだが、問題は演出にあったように思う。

 せっかく作った舞台上のプールがあまり生かされていないのがまず第一の問題。上手側は新国立劇場の中庭の池と同じく浅くて人間が歩ける程度の深さなのだが、下手側はどうやら深いらしく人間が歩くことはなく、例のハンカチが捨てられ、それをイヤーゴが竿?を使って拾うとか、子供たちが花を投げ入れるといった程度で、予想されたような船が浮かぶのではないかという荒業はなし。イヤーゴがプールに入って緑色の泥?で中央の壁に十字架?あるいは何かの呪いの印を描いて、それをバケツに入れた水をぶちまけて消すという謎の行為があったりした。最後は錯乱したオテロが水に入ってずぶ濡れになり、絶命するくらい。本水は別になくてもよいのだが、第2幕のオテロの妄想として演出された部分に水面に照明を当てて、壁に乱反射させるためだけに用意されたのかと思った。

 第2幕は、冒頭が照明の力で、色がなくなったモノクロの世界になった。そこに邪悪なイヤーゴが立つので、悲劇が展開していく序章としては成功。それ以降のオテロの妄想の場面は秀逸。もっともオテロの猜疑心を助長するのが目的とはいえ、デズデモーナが足を露出して、まるで売春婦のような媚態で迫るという正視できないような場面が展開して幻滅。いくらオテロの妄想とはいえ、やり過ぎだと思った。これにより、オテロの人種的以外の劣等感が想像されるのだが、オテロとデズデモーナの性生活までも想像できてしまうのは困ったものである。天使の妄想は膨らみすぎてしっまった。

 最初は、デズデモーナがオテロを先導して寝室に入っていったので、デズデモーナがオテロを待ちかねた様子がみてとれた。二人が睦み合っている時に騒ぎが起きるので、オテロの二度目の登場が、すごく不機嫌そうにみて可笑しかった。年齢差のこともあり、オテロはデズデオーナの要求に応えられなかったりするのかもと考えたりした。まったく下劣な想像なのだけれど、そうした妄想をかきたてるような演出だったのは確かである。

 休憩後の第3幕では、幕前で少しだけ芝居があってオペラカーテンを上手く使って場面を作っていた。新演出だと、どうしても全場面の完成度が高いとうことは少なく、穴があるものだが、今回は第3幕だったようである。第1幕と同様に大勢の人間を全く動かすことができなくて、途端に芝居が停滞してしい最後まで盛り上がりを欠いた展開になってしまい、気がつけばオテロが悶絶していたといった具合で、少々退屈を感じたほどである。

 第4幕は、短時間の舞台転換で水面に置かれていた小さな木道のような通路が取り払われて、寝室の存在が強調されてデズデモーナの追いつめられた状況をよく表現していたと思う。ここでは、デズデモーナのタマ―ル・イヴェーリの素晴らしい歌唱を邪魔するような演出がなくて、音楽に集中できたのが何よりで、第2幕の悪夢のような太ももを露出する演技の記憶を打ち砕くような清純さに救われた想いである。それで感動できたかといえば話は別で、ルーチョ・ガッロのイヤーゴをはじめ、充実した歌唱と演技の印象のみが強く残る。結局は「奇妙な演出」だったなあというのが正直な感想である。制約の多い舞台で、従来の舞台美術を越えようとした演出の試みは評価できるが、このオテロには将軍としての力量や政治力を想起させるような部分がなく、SEXと劣等感しか持たない、実に人間としては小さすぎる印象しか残らなかった。だから悲劇の空気が広がらなかったのかもしれない。

2009年9月20日(日)14:00開演

指 揮   リッカルド・フリッツァ

演 出   マリオ・マルトーネ
美 術   マルゲリータ・パッリ
衣 裳   ウルスラ・パーツァック
照 明   川口雅弘
合唱指揮 三澤洋史
  
オテロ     ステファン・グールド
デズデーモナ タマ―ル・イヴェーリ
イアーゴ    ルーチョ・ガッロ
ロドヴィーコ  妻屋 秀和
カッシオ    ブラゴイ・ナコスキ
エミーリア   森山 京子
ロデリーゴ   内山 信吾
モンターノ   久保田 真澄
使者      タン・ジュンボ


東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団
NHK東京児童合唱団

2009-09-22 23:21
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ドン・カルロ 初日 ミラノ・スカラ座2009年日本公演 [オペラ]2009-09-10 [オペラ アーカイブス]

 今月はミラノ・スカラ座の2演目をはじめ、新国立劇場の「オテロ」とさながらヴェルディ月間といった趣である。これまでのスカラ座の来日公演では、アバド、クライバー、ムーティ、シノポリと巨匠と呼ぶに相応しい指揮者を揃え、他の来日公演とは一線を画す内容であった。今回も、あのタフで意欲的なバレンボイムに依頼すれば、全演目を振ってくれたような気もするが、昨年の開幕を飾った新演出の『ドン・カルロ』を指揮したダニエレ・ガッディが登場。すでにバイロイトにも登場しており、メトロポリタン歌劇場やザルツブルグ音楽祭への登場も予定されているイタリアの俊英であるらしい。

 まだ大指揮者とはいえないものの日本初登場?の才能、さらに新演出時の公演よりもキャストが充実していた面もあって、大いに期待されたのだが、初日の宗教裁判長を歌うはずだったサミュエル・レミーが降板してしまい残念だった。フィリッポ二世を歌うルネ・パーペ12日と13日は連投となってしまい負担が心配される。

 さて劇場へ入ると通常のオペラカーテンのラインからはみ出して、白っぽい大理石風の床がオーケストラピットまで伸びていた。プロンプターボックスはなく、オーケストラピットも背後の壁が取り払われて舞台の下までピットになるという大編成仕様。楽員がびっしりと並び壮観な眺めで、そのせいか珍しく指揮者は舞台中央の出入り口から登場という変則型だった。ひじょうに低速でオペラカーテンが左右に引かれると、数段の階段とそれを額縁のように取り囲む枠が舞台上部まであり、舞台奧に向かって遠近法を使って伸びる傾斜した木製の床とが基本な装置となる。それに紗幕で舞台前と後方を仕切って使用したり、背景と周囲に森?が出現したり、抽象的なドアの並んだ黒い壁、森の樹木をイメージさせ火刑台にもなるオブジェ、フィリッポ二世の孤独を表現するような無機質な壁、そして先王カルロ五世の墓など、極力小道具や装飾を廃したシンプルな舞台で、照明に映えて美しいのが取り柄。16世紀の時代物の衣裳とも妙にマッチして違和感がなかった。場面、場面を切り取ると上野の公募展にでも展示されていそうなアートに見えないこともない。もっともアイディアだけで絵画としては見るべきものがなく入選も危ういレベルなのだが…。

 「アイーダ」のように音楽によって「愛と平和」を感じるような瞬間もなく、本当に伝わってくるものが少ないので、ひたすら何もない舞台に耐えるような時間を過ごし辛かった。特に第1幕のヨレヨレぶりは、本当にこれがスカラ座なのかと驚くような酷さで落胆させられた。全編を貫く重要なテーマであるはずのドン・カルロとロドリーゴのニ重唱など全然盛り上がらなくてがっかりさせられた。主に原因は指揮者の非力さとラモン・ヴァルガスの低調さに起因していて、第2幕のエリザベッタとの二重唱など拷問に等しく、これだけ緩みきった音楽を聴くのは久しく体験していないことだった。それに影響されたのかエボリ公女のドローラ・ザージックも大味で繊細さに欠けるアリアで本領を発揮しないままだった。

 演出は、弛緩しきった音楽を補うつもりか、紗幕越しに、ドン・カルロとロドリーゴの友情物語?を同じ衣裳を着た子役に演じさせたり、先王のカルロ五世を見せたりと、音楽で説明するべき物語の視覚化に心血を注いでいたようである。あまりに説明過多で煩わしいだけで効果は限りなく薄いように思われた。それを救ったのはルネ・パーペが演じるフィリッポで、その登場した瞬間の存在感だけで舞台が締まったのに驚く。今回の公演では、花も実もある歌手はバルバラ・フリットリが第一で、ルネ・パーペがそれに続くという感じだった。とにかく指揮者と演出者の非力さが露呈してしまい、各歌手が自分の聴かせどころで勝負といった個人技の競いあいに終始してしまったようだった。

 第2幕の冒頭で、プログラムにはエリザベッタとエボリ公女がベールを交換する場面を指揮者の強い要望により挿入と書いてあったが何故かカット。第3幕の第2場には書かれているようにロドリーゴの死を前にしてフィリッポのアリアが歌われた。とにかく四幕版であるのに上演時間が長いのでカットになったと思われる。挿入されていたとしてもフィリッポの部分同様に効果があったかどうかは疑問であるけれど…。

 第3幕の第2場は異端者が火刑台にかけられる場面で演出家が最も心血を注いだ場面であると思われた。火刑台は舞台奧にあるポールのようなオブジェで、カルロ役の子役が中央で宙乗りになり火刑が始まると宙乗りになるというケレンたっぷりの場面であった。残念ながら、その意味するところは客席に伝わってこなくて何故にここで昇天しなければならないのか疑問だった。

 もっと理解できないのは、舞台の主な登場人物は16世紀の衣裳であるのに、合唱団の演じる群衆の衣裳は19世紀末風だったことである。たぶんヴェルディの作曲した当時、イタリア統一を阻む宗教者のおぞましさと、為政者がいかに宗教者の前で無力であるか、そして作曲された当時の政治状況を観客にイメージさせようという演出意図だったのだと思う。イタリア人ならともかく、そんな歴史的な意図は邪魔だし、知っている人だけが知ればいいような知識で、舞台の調和を崩してまで挑戦するような価値があるか、これまた疑問だった。演出家はそうしたことに夢中だったのか、せっかく劇的に盛り上がるはずの舞台を弾ませることはできなかったよである。

 第3幕は三方を壁が囲んでいてフィリッポの心象風景を象徴するという場面と考えれば、全編でも最も充実していたように思う。何もない舞台で余計なことをせずに音楽に集中できる状況をつくりだしたのが最大の功績だったかもしれない。フィリッポの「ひとり寂しく眠ろう」やコチェルガの宗教裁判長との二重唱、つづく四重唱、さらにエボリ公女のアリアは、何もない演出とヴァルガスの不在で、充実したものとなったのは皮肉だった。

 ここでの問題は舞台転換に時間が掛かりすぎたことで、終幕近くになって10分以上もかかるのは音楽の流れを断つばかりでなく、ミラノの観客と違って、東京近郊に住み2時間近く電車に揺られなければならない観客にとっては腰が落ち着かなくなるのが困る。第2場は後方の壁を移動して入れ子式の部屋をつくり、第4幕は周囲の壁をすべて撤去して別の壁を建て込むというアイディアなのだが、そんなに大掛かりな転換が必要だったかどうか…。

 長い転換の後、第4幕が始まったのが22時過ぎ、もう出ないと思っていたカルロの子役とからみながらエリザベッタのアリアが歌われる。いくらなんでも子供が登場する時間として遅すぎるし夜遅くて可哀想。別にいなくても物語の進行上では問題ないと思う。突然のフィナーレは後方のドアからカルロ5世が宗教者を従えて登場し、墓石の上に横たうカルロに両手を広げてポーズして全曲が終わった。何だろうと観客に考えさせる時間も与えない唐突な終わり方だった。もっとも伝えるような内容はなかったような気もするけれど…。終わってみれば不満以外には何もなかったようなないない尽くしの舞台だった。

 ロビーにはミラノ・スカラ座の外観の大きな電飾パネルが置かれ、柱にはイタリア国旗が飾られ雰囲気づくりに懸命だったようだ。とにかく休憩時間にはロビーに人が溢れ、化粧室は女性用も男性用も大行列だった。初日だけあってお洒落な人も多く見かけて華やか。さすがに上野?だけあって女装した男性もいたようだった。オペラカーテンはゆっくり締まったのだが、未だに音楽が終わらない内に拍手をしてしまう人が少なからずいて呆れる。

ミラノ・スカラ座 2009年日本公演
「ドン・カルロ」全4幕(イタリア語版)

指揮:ダニエレ・ガッティ

演出・舞台装置:シュテファン・ブラウンシュヴァイク
衣裳:ティボー・ファン・クレーネンブロック
照明:マリオン・ヒューレット
合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ

--------------------------------------------------------------

フィリッポ二世:ルネ・パーペ

ドン・カルロ:ラモン・ヴァルガス

ロドリーゴ:ダリボール・イェニス

宗教裁判長:アナトーリ・コチェルガ

修道士:ガボール・ブレッツ

エリザベッタ:バルバラ・フリットリ

エボリ公女:ドローラ・ザージック

テバルト:カルラ・ディ・チェンソ

レルマ伯爵:クリスティアーノ・クレモニーニ

国王の布告者:カルロ・ボージ

天の声:イレーナ・ベスパロヴァイテ

フランドルの6人の使者:
フィリッポ・ベットスキ
アレッサンドロ・パリャーガ
エルネスト・パナリエッロ
ステファノ・リナルディ・ミリアーニ
アレッサンドロ・スピーナ
ルチアーノ・バティニッチ


ミラノ・スカラ座管弦楽団 /ミラノ・スカラ座合唱団


◆上演時間◆

【第1幕】 18:00 - 19:15
休憩 30分
【第2幕】 19:45 - 20:25
休憩 30分
【第3幕】 20:55 - 22:00
-舞台転換-
【第4幕】 22:05 - 22:25

2009-09-10 23:29
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アイーダ ミラノ・スカラ座2009年日本公演 初日 [オペラ]2009-09-06 [オペラ アーカイブス]

1988年の9月。マゼール指揮のミラノスカラ座日本公演『トゥーランドット』の初日を観るためにNHKホールの客席に最愛の人といた。あの頃が、天使の人生が最も幸福で輝いていた時だったように思う。故ゲーナ・ディミトローヴァのタイトルロールに、ニコラ・マルティヌッチのカラフ、ダニエラ・デッシーのリューという当時の最強キャスト。そしてゼッフィレッリの巨大にして壮麗な演出。何もかもが素晴らしかった。登場人物も多く、多くのエキストラが集られたが、中国の物語といえどもイタリアの歌劇場の公演なので、西欧人のエキストラばかりが集められたと聞いた。初日の舞台では宮殿の大階段の並ぶエキストラが転ぶ?というアクシデントなどもあり、ロリン・マゼールのゆっくりとしたテンポとともに印象深いものとなった。

 カーテンコールには演出家のゼッフィレッリが登場した。翌日の東京文化会館の『ラ・ボエーム』では、クライバーやフレーニが楽屋口の混雑を避け、野球場側の裏口から脱出する?のを察知して出待ちしていたら、ゼッフィレッリが出てきて、ファンがサインをねだっているうちに、クライバーやフレーニが車に乗って立ち去るという頭脳プレイにやられたりした。そのとき、ゼッフィレッリにもらったサインは大切にとってある。当時はもう初老の年代だったはずだが、この世にこんなに美しい人がいるのかと思った。

 そして21年後の9月4日。ミラノスカラ座日本公演は、バレンボイム指揮の『アイーダ』で通産100回を迎えた。演出は新国立劇場の『アイーダ』も手がけたゼッフィレッリである。新国立劇場とは舞台機構も違うスカラ座、そして新国版初演から10年余が経過しての新演出ということもあって、どのようなものになるのかと興味があった。常識的に考えれば、細部は変更しても新国版を踏襲するが常識なのだが、80歳を越してなお、新しい演出に挑戦しようというのは、まさに真の芸術家なのだと思った。その意欲、そのエネルギーに敬服するほかはない。プログラムに演出家が書いていたように、今回の演出の目玉は、すべての出来事を支配する?あるいは導く?役割としてアクーメンと呼ばれる巫女?を登場させたことである。それについて演出家は次のように語っている。

 (前略)こうした示唆に力を得て、私は、輝かしい、そして途方もない力をもつ都市メンフィスの中心に、もう一人の霊的存在の姿、人々に不安を呼びさますような姿を思い描いた。それが巫女の長であり、私は彼女にアクーメンという名もつけた。彼女は、アイーダとラダメスとアムネリスの物語の核心的な場面に登場し、これら三人の登場人物の、運命に操られた苦難の人生に寄り添い、守るために、天上のエネルギーの「注ぎ手」となる。  彼女は、出陣するラダメスに剣を授けるために、神殿において巫女たちとともに儀式的な踊りを舞う。(アクーメン自身の声のように思われる)一人の巫女の天使のような声による歌が、儀式にともなって歌われる。  アクーメンはまた、偉大なる神々の前で、勝利の日に凱旋行進曲でクライマックスに達する「聖なる行進」を率いる。そしてラダメスが、勝利の聖剣をふたたび引き渡す相手もまた。アクーメンである。 その後の場面、ナイルの岸辺で、アクーメンは巫女たちとともに、ラダメスとの婚儀に際して女神の庇護を願うために神殿にやってきたアムネリスを迎える。そして、アムネリスをおびやかす新たなエネルギーが押し入ってきたこと、すなわちアイーダの愛を告げるのも、やはりアクーメンである。  そして、アイーダの愛の力を前にしては、神々ですら無力であり、膝を屈しなければならないことになる。アクーメンに残されたのは、愛を失った、しかし新しいエジプトの偉大な王として君臨することになる、アムネリスを守る力のみである。ヴェルディは最後に、最も偉大な、最も力強い無敵の神とは愛にほかならないことを、私たちに告げているかのようである。

 などなど活躍の場?は与えられていたようだが、バレンボイムの音楽の充実ぶりがあったせいか、舞台に違和感なくとけこんではいたが、ドラマに与える役割としては小さく存在感も希薄で成功していたとは言い難いのが残念だった。とかくゼッフィレリの演出は、20世紀の遺物のように思われるため、そのレッテルを打ち破ろうとしたのだろうとは容易に想像できる。それでも彼の演出が素晴らしいと思ったのは、従来から定評のある舞台美術であり、人物の配し方であり、衣裳の美しさであったのが皮肉といえば皮肉である。

 今回は、ほぼ新国立劇場の美術を踏襲したような第三幕を除き、基本的な階段状の舞台に古代エジプトの文様が装飾された壁などが配されるという形式で、新国立劇場のように写実に徹したような舞台装置に比べると、省略があり、抽象化があり、より洗練されたものになっていたように思う。それが端的に現れていたのは、21年前の『トゥーランドット』でも使われていた空中に配されていたパイプの存在である。照明によって黄金に輝いて見えたり、ブルーに光って見えたり、長さ1メートルほどのパイプを舞台面と平行に舞台上へいくつも吊るされている。その場の空気感を表現していて素晴らしい工夫である。古代エジプトの装置と違和感がないのは、古代中国の装置と違和感がなかったのと同じである。こんなことを考えつくとは、やはりゼッフィレッリは天才なのだと思った。

 人の動かし方も絶妙で、開幕時の主要な登場人物の動き、大人数の登場人物の出し方、引っ込め方など音楽に非常にあっているのに感心させられた。そして主役たちの立ち位置の的確さ、歌舞伎で言うところの居所が見事に決まっているのにも驚かされた。舞台上での人間と人間の間隔は、実際の世界での位置関係とは大きく違う。ましてNHKホールの大舞台である。そこに二人ないし三人の人物を配し、映画でいうようなクローズアップの効果をもたせようとすれば、的確な位置関係はおのずと決まってくるものである。それを外していないのは、さすがに長年オペラに携わってきた人であり、それを忠実に再現したスタッフの努力の賜物だと思う。

 舞台には舞台なりの秘密がある。今回もエジプトの文様が描かれただけの幕を三方向に吊るしただけで室内を表現した第二幕の第一場が見事であった。簡単に空間を仕切っているだけなのに、その基本となる舞台装置は「凱旋の場」と同じなのに、どう観てもアムネリスの寛ぐ室内なのである。それがその後に続く場面との対比となって効果的なのだが、そうした部分の工夫が上手い。パリの小さな屋根裏部屋を舞台上の大空間に見事に表現し、その後の群集シーンへ繋ぐのはゼッフィレッリの最も得意とするところだが、この『アイーダ』でも劇場の魔法をさりげなく披露していたように思う。

 「凱旋の場」は、階段状になったところに合唱団やアイーダトランペットの奏者が隙間なく並び、奥行きよりも高さで豪華さを表現したようである。残念ながら舞台のプロセニアムの高さが10メートルしかないNHKホールでは、3階席からは舞台上部が見切れてしまってその全貌を見ることはできなかった。それでも華麗さは十分に伝わってきて、新国立劇場のように馬が登場などというケレンはないものの迫力に満ちたものだった。ただし、すべての空間から、見た目の派手さにもかかわらずに空虚さが伝わってきたのは、バレンボイムの音楽の力によるところが大きかったように思う。この場面が、必ずしも「勝利ばんざい」といった単純な構造でないこが伝わってきて、深く考えさせられるものになっていたからである。「凱旋の場」で「平和」という文字が天使の脳裏に浮かんできたのは初めての体験だった。戦争の勝利を祝う場面で、なぜそんな言葉を思い浮かべたのか。音楽のほかに、壮麗でありながら、その骨組みが透けて見えるような舞台面が関係していたように思えてならなかった。

 第4幕は、地下牢の扱いが問題となる。迫りが完備している新国立劇場なら舞台装置ごと上げ下げすれば問題ないのだが、ミラノ・スカラ座ならともかく、HNKホールでは実現できないので、中央の建物?の扉を僧が観音開きで開けて中を見せるという手法で解決していた。別に新しい手法ではなく、藤原歌劇団でも東京ドームの「アイーダ」でも同じような手法が使われていたので珍しくはないのだが、周囲の舞台空間が寂寥感を一層かきたてて上手いのである。

 演出をほめてばかりだが苦言も少々。舞台の床面には石が描かれたものが一面に張られていたが、上手と下手の舞台端まではカバーできなかったのか、舞台の床面がむき出しになっていたことである。せめて黒い布でも張ってくれないと、木材の床面が客席から見えてしまっては興ざめである。完璧主義だったはずのスカラ座ともあろうものがどうしたことだろう。初来日公演時に、舞台の前面にある白っぽいフットライトのカバーが目障りだといって、茶色の布を張り出したイタリアの職人がいたという伝説はどうなったのだろうか?世代交代しても、そうした細部へのこだわりを捨ててはならないと思う。演出家が同行していないと、こした細部への美意識が欠けるのだろうか。

 最も許せないと思ったのは、第1幕の第1場が終り、暗転幕が降りてからである。いくら素早い舞台転換が必要とはいえ、繊細な音楽が鳴り続けているのに、早くも転換作業が始まってしまって騒音が客席まで聞こえてきたのである。観客は舞台転換の速さよりも、音楽を聴きたいのである。スカラ座ともあろうものが…。なんだか老舗の文句をつける常連客みたいな台詞になってしまったが、こうした細部へのこだわりがあると信じていただけに落胆は大きかったのである。それ以降も背後で舞台転換は行われているような気配が何度も感じられて残念だった。いまどき歌舞伎座だって芝居中は静かに舞台転換をするのに…。こんなに騒音が気になったのは、バイエルン国立歌劇場がサバリッシュの指揮で『マイスター・ジンガー』を上演して以来のことである。あの時は、短い間奏曲の間に歌合戦の場面に転換する必要があったとはいえ、信じられないような大騒音で驚いたけれれど、今回はスタッフの心がけ次第の問題と思うので憤りを覚えたのである。演出家が来日していれば劇場人として絶対に許すはずがなかった問題で残念である。それに字幕…。序曲の間に登場人物の説明が映し出されるし音楽に集中できないので目をつぶって聴いた。それ以降も字幕はほとんど無視。ムーティがいた頃、スカラ座はムーティの意向で字幕は出さない時期があったのだが、素晴らしい音楽を前にしてはそれがいかに正しい見解だったかと思い知った。

 そうした問題も大きな瑕と思えなかったのはバレンボイムの音楽が素晴らしかったからである。天使の隣のカップルは、彼の指揮がお気に召さなかったようで彼女の方は小さく「ブー」をしていたようである。実際に客席からはバレンボイムに対して大きなブーが飛んだが、それは認識の違いというか、歌劇『アイーダ』に何を求め、何を表現しようというのかの違いだと思う。「ブー」を叫んだ人々は、大歌手の勝手気ままな要求に応え、その歌手が最も映えるように音楽を奏でられる指揮者の公演を選べばいいのである。バレンボイムは、そうした幾多の凡庸な指揮者とはまったく違った音楽を現出してみせたのである。

 序曲は、これ以上ないほどの繊細さで始まり、冒頭からスカラ座のオーケストラの底力をみせつけられた感じである。ところが最初の聞かせどころであるはずのボーダのラダメスによる「清きアイーダ」が冴えなかったのである。後半にかけては絶好調だったので、ボーダが不調だったとは思えないのだが、普通は最後にフルボイスで高音を引き伸ばすはずが、ファルセットで繊細?に歌われたのっである。かつて藤原歌劇団の公演でラダメス役の大歌手がまったく声が出なくなっても最後まで歌い続けたという悲惨な公演を体験していたが、それとも異なり、何かの意図があって歌われたとしか思えなかったのである。客席も今か今かと待ち構えていた瞬間が失われてアリアの後に拍手するタイミングを逸してしまった。

 高音が輝かしい未来への希望といった意味合いを失い、繊細で弱弱しい高温は、愛する者を喪うことへの恐れのように聴こえた。そして第一場は、愛する者を喪うことを恐れる者の修羅場となったように思えた。修羅場=地獄である。音楽はひたすらその悲惨な光景を伝えることに終始していたように思う。この音楽に共感できるのは、まさに「愛する者を喪った人」しかいないように思えた。バレンボイムが妻のジャクリーヌ・デュ・プレを亡くしているからとは言わないまでも、失うかもしれない愛に、失ってしまった愛に苦しんだものにしか理解できないのではないかと思えたのである。お隣の幸福そうなカップルがバレンボイムの音楽に共感できなくて「ブー」をつぶやいたとしても、それはそれで幸福なことなのであろう。そして最後まで、バレンボイムの音楽は、天使が愛する人を喪う事で味わってきた地獄のような日々を思い出させて切なく苦しかった。だからアイーダにも、アムネリスにも、ラダメスにも激しく感情移入してししまい、それぞれの胸中を慮っては苦しさを募らせることとなった。こうしてバレンボイムの音楽は「愛」を強く意識させる音楽として響いてきたのである。

 そして「凱旋の場」がこのオペラのクライマックスになるはずだったが、輝かしく響くべき勝利の合唱は、戦争の結果もたらされたものとして、おぞましいものとして演奏されたように思った。もちろん世界最高水準の合唱団は十分すぎるほど機能はしていたが…。この場面でバレンボイムが訴えたかったのは「平和」なのだと強く感じた。男女の間で悲喜こもごもの争いによってもたらされる「地獄」。国家間の戦争によってもたらされる「地獄」。バレンボイムによって、初めて舞台上に「地獄絵図」を音楽によって見せられたような気がした。文楽の名人の三味線弾きは、撥のひと弾きで「修羅の巷」を表現したりするが、まさか歌劇『アイーダ』でそんなことになるとは思っていなかったので、バレンボイムの音楽の力に圧倒された。アルゼンチン生まれのユダヤ人でパレスチナ問題に深く心を寄せる人だからとはいはないが、大向こうの受けを狙って空虚な内容のない音楽をタレ流さなかったとろが天才の天才たるゆえんだと思った。地獄絵図」は、第三幕に至ってますます、そのおぞましさをました。三者三様の愛への執着、それにアイーダの父である戦に命を懸けるアモナズロが加わって、美しい音楽が描き出す地獄という快楽にも似た苦痛を味わうことになった。

 そうした「地獄」を感じたからこそ、第4幕のアイーダとラダメスの手に入れた「天国」に響く音楽が、この世のものとは思われないほど美しく感じられたし、アムネリスの諦念の想いが悲しく響いてきて、かつてないほどの感動を味わうことになった。同じ音楽を聴いてもまったく違った感じ方をする人がいるのは仕方がない。ましてウン万円もする高額なチケットなのだから、どう感じようとそれはその人の自由なのだと思う。そうした自由を手に入れて、なおかつ感動に包まれたとしたら、これほど幸福なこともないなあと思う。勘違いと笑われようと何しようと、そう感じた自分を大切にしたいと思った。

 当初に発表された歌手から変更があり、直前になってアムネリスのルチアーノ・ディンティーノが降板してエカテリーナ・グバノヴァが代役に立った。こうしたアクシデントに備えてキャスト表には出てこない歌手を控えで準備しているのは引越し公演ならではで、大きな穴とならなかったのは何よりだった。主役の三人はバレンボイムの音楽的な意図を汲み取って好演していたと思うが、アモナズロのホアン・ポンスだけは旧態依然の大味な歌唱に思えて違和感があったように思う。大多数の観客には受けていたようだが…。

 バレエはミラノでは、ロベルト・ボッレなどスカラ座のバレエ団のスターが出演したようだが、日本では普通のプリンシパル級だったようである。限られたスペースで踊って、大きな客席にアピールしなければならないので大変だったと思うが、元ボリショイの芸術監督だったワシリーエフの振り付けは、オペラだからといって手を抜かない技術的にも高度な要求がされていたようで、なかなか楽しめた。子供たちのバレエは、東京バレエ団に付属するバレエ学校の生徒だったらしく、男の子たちはともかく、女の子たちは、子供には過酷とも思えるような容赦ない振り付けを踊りこなしていて感心させらえれた。アリアに拍手はおきないオペラだったが、バレエに拍手がおきたのは当然のことのように思えた。

 上演終了後は、バレンボイムが指揮するオペラやシルヴィ・ギエムのボレロを演奏したシカゴ響の時と同じく楽員を舞台に上げてのカーテンコールとなった。バレンボイムが幕前に出ている間に鏡開きの用意がされて通産100回の記念公演を祝うパネルや紙テープが降ってきた。紙吹雪が舞わなかったのは、クライバーの「ばらの騎士」の千秋楽に枡酒の中に紙吹雪が入ってしまい往生したからだと思う。ただし、鏡開きの段取りは悪いように思えた。樽酒の鏡は木槌で叩いて簡単に割れるようなものではなく、前もって割っておくものである。大人数の場合は、ひしゃくで日本酒を汲んでいたら、乾杯するまでとんでもない時間がかかってしまうので、前もってある程度の枡に酒を注いで配れる準備をしておき、ひしゃくで汲むのは何名かのV.I.Pにとどめておくべきである。せっかくの鏡開きがなんだか締りのないセレモニーになってしまって残念だった。それこそ演出家が必要な気がした。

 NBSの佐々木氏が16年越しの夢を実現させたミラノ・スカラ座の初来日公演が28年前。手を引かれながらもロビーに元気で姿を現した佐々木氏に感謝の言葉を述べたい。彼がいてくれたからこそ劇場の天使と名乗る自分がいるのである。28年前、偶然にもスカラ座の「ジモン・ボッカネグラ」を観なければ、オペラやバレエを見る愉しみを知らずにいたに違いないからである。まして自分が歌ったり、チェロを弾くこともなかったと思う。ただただ感謝である。

 そんな佐々木氏が怒りで震えそうな公演案内があった。かつてバブルの頃に、NHKホールのお隣の代々木体育館で上演されたアレーナ・デ・ヴェローナの公演が、有楽町の国際フォーラムのAホールで行われるという。演目は同じ「アイーダ」で指揮はドミンゴ。かつてMETの来日公演で「カルメン」を指揮して、天使を悶絶させてくれた大歌手のドミンゴである。主役には、デッシーとアルミリアートの夫唱婦随のカップル。会場が体育館から巨大なホールになっただけましかもしれない。かつてはPAを使わなかったような気もするが今回はどうなんだろう。確か市民オペラの団体が?落としで「アイーダ」を上演したはずでPAは使っていなかったのだが。スカラ座に比べるとチケット代がお安く感じるマジック!たぶん行かないと思うけれど…。

ミラノ・スカラ座 2009年日本公演
「アイーダ」全4幕

2009年9月4日(金) 17時開演NHKホール

指揮:ダニエル・バレンボイム

演出・舞台装置:フランコ・ゼッフィレッリ
衣裳:マウリツィオ・ミレノッティ
照明:ジャンニ・マントヴァニーニ
振付:ウラジーミル・ワシーリエフ
合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ

--------------------------------------------------------------

エジプト王:カルロ・チーニ

アムネリス:エカテリーナ・グバノヴァ

アイーダ:ヴィオレッタ・ウルマーナ

ラダメス:ヨハン・ボータ

ランフィス:ジョルジョ・ジュゼッピーニ

アモナスロ:ホアン・ポンス

使者:アントネッロ・チェロン

巫女:サエ・キュン・リム


ミラノ・スカラ座管弦楽団 /ミラノ・スカラ座合唱団

プリンシパル:サブリナ・ブラッツォ アンドレア・ヴォルピンテスタ
ソリスト:ピエラ・ペドレッティ
ミラノ・スカラ座バレエ団

東京バレエ学校


◆上演時間◆

【第1幕】 17:00 - 17:50
-舞台転換-
【第2幕】 17:55 - 18:40
休憩 35分
【第3幕】 19:15 - 19:50
休憩 30分
【第4幕】 20:20 - 20:55

2009-09-06 20:30
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ヘンゼルとグレーテル 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩ [オペラ]2009-07-23 [オペラ アーカイブス]

 日本国内では、なかなかオペラを指揮する機会のない小澤征爾のに人気なのか平日公演だというのに超満員の盛況だったのは何より。例によってオーディションで選ばれた若い演奏家による即席オーケストラである。経験不足、音楽性の欠如など弱点は数々あげられるかもしれないが、観客には小澤の振るオペラにふれる数少ない機会であり、小澤の人脈なのか毎回良い歌手が揃うのも魅了である。若い音楽家に一流の歌手やスタッフとオペラを創り上げる機会を与える意義は言うまでもない。また演出も大掛かりだったり、奇をてらうような先鋭的なものではなく楽しめるのも嬉しい。会場でお会いした友人のDianaさんと横浜と東京の二回も「ラ・ボエーム」を観にいったこともあるのが、この一連の公演だったのを思い出した。

 さて今回の公演、会場に入ると気がついたのは、舞台の左右にある脇花道の上部にある時計と禁煙サインと休憩時間の表示板の変化である。何かがおかしい。なんだろうと思ってよく観察すると時計の針がないのである。確かに観客の視線が集まる舞台の左右に時間を刻む時計があっては煩わしいし、退屈なオペラだと「あと何分かな?」などと舞台への集中力をそぐことも考えられる。誰が外させた知らないが、舞台を愛する姿勢に敬意を表したい。NHKホールでのN響のテレビ中継など、古い記録ではパイプオルガンのバルコニーにある時計が写りこんでいて、音楽に没頭できないことがある。舞台に向いているので放送用に必要な時計なのだろうが、最近はカバーをかけて目立たないようにしているのはひとつの見識である。

 演出のデイヴィッド・ニースの発案だとしたら、優れた美意識の持ち主だと言わねばならない。今回の演出は、「ザ・ダラス・オペラ」の舞台装置や衣裳を使用したものだという。まことにオーソドックスなデザインで、前半の最後の天使が出現する場面など、劇場全体が黄金色に包まれ、音楽の美しさとともに、深い感動があった。

 また後半のお菓子の家の場面では、劇場全体が桃色に染められたようになったし、一転して魔女の家の内部では青い色調の照明となって、変化を観るだけでも楽しかった。きっとクリスマスシーズンのお子様も大喜びだったろうと思う。

 第1幕は、森を背景にヘンゼルとグレーテルの貧しい家があり、洗濯物を干したロープがあり、天井から降ろされた長いロープで作られたブランコ、下手は森に通じる道といった具合でコンパクトながら、美しい装置だった。

 音楽が途切れずに第2幕となり、家が上手に引かれると下手の樹木が移動して森の中になる。眠りの精が黄金の砂?を撒くと、紗幕越しに背景に天につながるX字型の階段が浮かび上がり、14人の天使が出現するという見事な舞台。

 第3幕には、天井から露の精がゴンドラ?に乗ってサプライズ登場。紗幕越しに「お菓子の城」が現れて、魔女が空を飛んだり、「お菓子の城」の外から内部への転換、さらに大団円までスムーズに流れるよう演出で満足ささせてくれた。色々面白い工夫や新規な趣向もやればできるのだろうが、観客の期待通りの展開で余計なものが一切ないのがよかった。

 歌手では、魔女を歌い演じたグラハム・クラークが圧倒的に素晴らしい。つけ鼻や凝ったメーク、「熱い」といった日本語の台詞も交え、とってもとっても明るい魔女というかオバサンぶりが笑わせる。母親のロザリンド・プラウライトも豊かな声量で目をみはらせた。父親のウォルフガング・ホルツマイヤー、眠りの精・露の精のモーリーン・マッケイなど傑出した歌手はいなかったかもしれないが、手堅く歌われていたと思う。

 当初、バーバラ・ボニーが歌うはずだったグレーテルは、カミラ・ティリングが代役。愛らしい少女のイメージがあって、人形を抱いていても様になったいた。ヘンゼルはアンゲリカ・キルヒシュラーガーで、、こちらも少年役がよく似合っていた。この二人で「ばらの騎士」のゾフィーとオクタヴィアンなんかもいいのではと思わせた。

 さて肝心のオーケストラなのだが、どうも安全運転というか面白味のない演奏で、あまり楽しめなかった。天使はこのところ、大型免許の取得に挑戦中で来週の水曜日に卒業検定なのだけれど、彼らの演奏を聴いて初めて大型トラックを運転する路上教習で一般道へ出たときのことを思い出した。なんとか周囲に迷惑をかけないように必死。確かに流れに乗って拙くはない運転だけれど、余裕がなさすぎて不測の事故などがあったら対応できない感じ。小澤征爾がすべての責任を持つのは当然だとは思うが、半人前の楽員を統率していかなければならない苦労も察せられて同情した。

 日本ではあまり聴く機会のない「ヘンゼルとグレーテル」をオ-ソドックスな演出、さらにグラハム・クラークの素晴らしい演技と歌唱に接することができたので、まあ満足した。カーテンコールには、児童合唱を含めて全員で舞台前端まで並んで出てくるという、とってもアットホームな感じで肩の力が抜けた感じの温かいもので、オペラカーテンの前にソリストが出てくる演出はなし。あくまでもチームワークを強調するやり方だったは、いかにも小澤征爾らしい方法で好感を持った。

 会場内には、お洒落な人が多かったような印象。大柄な男性?が女性用の着物に女帯を締めて闊歩していたのには驚いたけれど、あまり違和感がなかったことに再度驚いた。オペラってなんでもあり、目立った者が勝ちということだろうか。天使も舞台の天使達に負けないくらいきらびやかに着飾ってくればよかった。

2009年7月23日(木)18:30開演 東京文化会館
音楽監督・指揮:小澤征爾
演  出:デイヴィッド・ニース
装  置:マイケル・イヤーガン
衣  裳:ピーター・J・ホール
照  明:高沢立生
オリジナル・プロダクション:ザ・ダラス・オペラ

管弦楽:小澤征爾音楽塾オーケストラ
児童合唱:東京少年少女合唱隊
児童合唱指揮:長谷川久恵

出演
グレーテル:カミラ・ティリング
ヘンゼル:アンゲリカ・キルヒシュラーガー
ゲルトルート(母親):ロザリンド・プロウライト
ペーター(父親):ウォルフガング・ホルツマイアー
魔女:グラハム・クラーク
眠りの精/露の精:モーリーン・マッケイ

主催:小澤征爾音楽塾/ヴェローザ・ジャパン
協賛:ローム株式会社
企画・制作:ヴェローザ・ジャパン

2009-07-23 23:15
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カルメン 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2009 東京文化会館 [オペラ]2009-07-21 [オペラ アーカイブス]

 平成21年度文化庁舞台芸術振興会の先導モデル推進事業〈舞台芸術共同制作公演〉
日本オペラ連盟・兵庫県立芸術文化センター・東京二期会・愛知県文化振興事業団共同制作
佐渡裕芸術監督プロディースオペラ2009というやたらに長いタイトルがついたビゼー作曲の『カルメン』である。

6月25日~7月5日まで兵庫県立芸術文化センターで9回、7月17日~20日東京文化会館で4回、愛知県芸術劇場で2回と合計15回の公演数とは異例のことで、新制作のオペラとしは新国立劇場でも成し得ない快挙といってよい。東京公演の初日を観たのだが、二期会公演だからか、あるいは佐渡裕の人気なのか金曜日というのにほぼ満員の盛況であった。新国立劇場へ何故か出演しない?あるいはできない日本人の中堅指揮者にとって、最高の機会であるし、官に対する在野の底力を見せつけた格好になった。残念ながら、今後の予定として三者の共同制作の計画は発表されていないが、協賛企業?も多く金のかかるオペラという魔物だが、是非続けて欲しい企画だと思った。

 場内へ入ると舞台全体が黒幕で覆われていて、脇花道の壁の部分も丸い時計と禁煙のサイン以外は黒い幕で覆われていた。これで天井につながる上部の白い音響反射板の続き?の部分も黒ければ申し分ないのだが、そこまで完璧主義ではなかったようである。四面舞台ではない東京文化会館での上演をも考慮したのか、基本的な舞台装置は四幕とも同じである。

 下手の舞台端から奧にかけて、三層の石組でできた半円形の壁が続く。客席と舞台を遮っているのは上手の舞台端を頂点として動く巨大な壁である。壁の下部分の上手には兵隊の詰め所や牢獄にもなるスペースがあり、必要の無いときは引き戸?で隠される仕掛け。上手部分にも出入りに使えるよう空間が空いている。ブルーを基調とした壁だが上手上方から下手にかけて鏡になっていて、その壁が半円形の壁に沿って動くと上の二層のバルコニー部分に立つ人々が映って空間が広がるなどマジックのような上手い工夫がされていた。半円形の壁に人がいないときには、客席が映り込んで、違和感がないばかりか、最初から計算されていたのではないかと思えるくらい東京文化会館の大きな壁面にある音響反射板を兼ねた彫刻が映えて美しかった。

 第一幕では、兵士の詰め所があり、ミカエラが登場、壁が下手から奧へ動いて煙草工場となるのだが、演技スペースが驚くほど狭くなり、音響的には有利なのかもしれないが、迫力があるかわりにいささか息苦しくも感じた。そのため鏡に映る空間が効果的なのだろうとは思った。ホセとミカエラの場面では、詰め所の壁が透けて二人の故郷の風景が出現する工夫があった。

 第一幕から第二幕は続けて上演された。わずかな舞台転換の時間でまったく違った印象の舞台に仕上げたのは見事な手腕である。この演出は20世紀初頭以降をイメージしているらしく、リーリャス・パスティアの酒場は下手にステージがあり、奧にバーカンウンター、前に椅子とテーブルといった感じで、スペインの酒場というよりも全体が赤の色調なので、北関東あたりにありそうなカラオケスナックみたいな感じである。あれで家具の素材が赤いビロードだったら、まさに日本の田舎の社交場といった感じである。

 第三幕は舞台前の紗幕に映った絶壁とその紗幕越しに見える密輸団の山の休憩所?さらに別の場所となるのだが、照明の当て方が悪いのか、紗幕越しに登場人物が見えないのが難だった。前の幕までの巨大な壁は180度回転?していて、今度は上手側上部に鏡がある。それが何を映し出すかといえば、上手上方のスクリーン?に映し出された映像が映るという凝ったもの。映像は大空を飛翔する鳥の映像で、ロマたちの自由への思いが重なってなかなか見応えがあり、閉ざされた空間が一気に広がった感じである。

 紗幕の前に演技では、上手から下手へ延びた一本のロープにつかまって移動するという演技をみせる。最初は面白いがたびたびだと飽きるし、何やら矛盾点もあって、あなたはいったい誰ッ?というような場面もあって、第三幕は全体的に観ると効果があがっていなかったように思う。

 第四幕は第一幕と同じ装置の使い回しで、兵士の詰め所がエスカミーリョの控え室になって衣裳をつけるという凝ったものだが、なぜ見せる必要があったかは謎である。例によって演技スペースが狭いので、出演者は少ないが迫力はあった。そしてこの演出の肝だったかもしれいないのは、第一幕のホセとミカエラの出会いの場面と第四幕のホセとカルメンの場面が、ほぼ同じ舞台装置で演じられたことによって、対照的な効果があることに気づかされたことである。二人の女の何から何まで正反対であるのに、ホセが迷ったのは、どちらも女の魅力に違いないということに気がつかされたのである。普段は気がつかなかったが、「あなた?」「僕だ」といったやりとりがくり返されていたのである。

 序曲の途中から、紗幕越しにホセが椅子に縛り付けられ、後ろから首を絞められるスペイン式の絞首刑?がみられる。少々刺激的な場面だが、ホセには常に破滅と死のイメージがつきまとうことになった。親切だともいえるし、説明過多ともいえるのが微妙だったかもしれない。ホセはいささかマザコン風でもあり、ミカエラは相当気の強い女性という演技がつけられていて、「大須オペラ」のように兵士をはり倒すような強い女ではないが、ナイフを持って兵士に斬りつけるくらいはしてしまいそうな女性となっていた。

 変わっていたは第二幕も同じで、冒頭の部分はすべて牢獄に入っているホセの妄想?といった感じに描かれていて、唐突にバレエやフラメンコを踊ったりしないのは賛成である。カルメンはSEXしか頭にない?ような女性に描かれていて、何かというと妖しな行動をとる。これではホセなど、ひとたまりもないはずである。第三幕で最も驚いたのは、スニガがあっさり射殺されてしまったことである。舞台の上での殺人は、カルメン殺しだけの方が効果的だと思うのだが、ホセに続いてスニガもあっさり殺されてしまうと食傷気味ではある。

 第四幕は、カルメンを刺し殺すまでは、他の演出と大差ないが、ナイフで正面から殺すのではなく、なんとホセ自身のスニガによって折られたサーベルで後ろから斬り付けるのである。とんだ籠釣瓶で、これでは愛しいるからこそ殺すという図式が成り立たず、殺人の動機としては弱いように思った。男女の機微は、そんなに図式的なものではないどろうと思った。

 歌手陣の中で一番印象的だったのは、NHK東京児童合唱団だったかもしれない。歌も芝居も上手かったからである。他の出演者は、これといった印象は残さず個性的に感じられなかったのが残念である。カルメンは美貌はともかく、カルメンにふさわしい強烈な個性はないし歌唱もそれなり。ホセは最後までカルメンの花を持ち続けたような情けない男で、それにふさわしい役作りだったように思う。エスカミーリョはなかなかに二枚目で押し出しも声も立派で外国勢のなかでは健闘していたように思う。

 ミカエラは木下美穂子で、楚々としてイメージのある人ではないは、いささか変わった演出のこの舞台には合っていた馬力のあるミカエラだった。一歩間違えばストーカーなのだが、一途に思い続けるいじらしさは伝わってきていたように思う。

 佐渡裕の指揮は、兵庫や名古屋と違って東京フィルハーモニーだったからか平凡でつまらない。もっと型破りで熱い演奏を期待していただけに肩透かしだったかも。オリジナルの『オペラ・コミック版』とレチタティーヴォを使用する『グランド・オペラ版』の折衷案だったようで、役者との掛け合いが台詞なので仕方のない処置だとは思う。あまり違和感がなかったのが何よりである。兵庫で公演を重ねただけあって、初日でありながら、いずれの出演者も余裕が感じられたのがよかった。

2009年7月17日(金) 18:30開演 21:50終演

芸術監督・指揮 :佐渡 裕
演出 :ジャン=ルイ・マルティノーティ

装置 :ハンス・シャヴェルノホ
衣裳 :シルヴィッド・ド・セゴンサック
照明 :ファブリス・ケーブル

ロマの女 カルメン ステラ・グリゴリアン
竜騎兵の伍長  ドン・ホセ ルカ・ロンバルド
闘牛士 エスカミーリョ ジャン=フランソワ・ラポワント
ホセの許婚 ミカエラ 木下美穂子
カルメンの仲間 フラスキータ 菊地美奈
同 メルセデス ソフィー・ポンジクリス
士官 モラレス 与那城 敬
竜騎兵の隊長 スニガ 斉木健詞
密輸業者 ダンカイロ 加賀清孝
同 レメンダード 小原啓楼

合唱:二期会合唱団、ひょうごプロデュースオペラ合唱団
児童合唱:NHK東京児童合唱団
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

2009-07-21 22:24
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修禅寺物語 初日 新国立劇場 [オペラ]2009-06-25 [オペラ アーカイブス]

 坂田藤十郎のオペラ初演出は大成功だった。歌舞伎ファンは必見必聴の名舞台である。『修禅寺物語』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『平家蟹』など岡本綺堂の新歌舞伎作品への認識が改められるほどの衝撃的な舞台であった。歌舞伎を題材にしたオペラ『修禅寺物語』は芸術の遥か高みに観客を誘い、オペラを題材にした歌舞伎『愛陀姫』は観客を低俗の奈落に叩き込む。何という違いであろうか。

 合唱ファンなら誰でも知っている男声合唱曲の名曲中の名曲『月光とピエロ』の作者として広く知られる清水脩ではあるが、残念なことにその人となりはあまり知られていない。プログラムの解説によると大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)でフランス語を学び、音楽家になった人だという。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のフランス語の微妙な響きと抑揚を活かした語るような日本語歌唱による作品を目指したのだという。なるほど先日聴いたポリニャック邸のサロンでの演奏会の再現に相通ずるものがあったはずである。

 短い序奏から始まる音楽は、岡本綺堂の新歌舞伎の台詞回しを活かした音楽がつけれていて、全編音楽が続いていく近代のオペラの手法で書かれていて、前時代のようなアリアといったようなものが一切ない。ほぼ歌舞伎台本に忠実に台詞が歌い継がれていく。そのかわり「夜叉王の動機」「頼家の動機」「かつらの動機」というものが登場人物を表すという形式をとる。

 そのおかげで、岡本綺堂の意図した台詞の意味が伝わるばかりでなく、台詞だけでは説明し得ない状況を克明に音楽が描くので、歌舞伎の舞台よりもより鮮明に『修禅寺物語』の世界が劇場に広がるのである。それまでの歌舞伎は音楽が重要な要素であったが、新歌舞伎は下座音楽を極力廃して、音楽劇という側面を棄てたといってもいい歴史がある。歌舞伎劇がフランス音楽の影響を受けた清水脩という才能と出会うことによって深化し、若杉弘芸術監督の要請により、坂田藤十郎の演出を得ることによって、『修禅寺物語』を初演した二世左團次以来の進取の精神を新国立劇場の舞台に蘇らせたのである。

 初演当時の観客には、その新しさが大いに好評を博し、明治座の一幕見には長蛇の列ができたという。作品の与えた衝撃の大きさは、今日の舞台を観たならば納得できるのである。翻って現在の歌舞伎で時たま上演される『修禅寺物語』はどうだろうか。

 12月の国立劇場では吉右衛門の夜叉王による『修禅寺物語』が上演されるという。同時に真山青果の『頼朝の死』、坪内逍遥の『一休禅師』も上演されるという。明治、大正、昭和の名作歌舞伎を一挙上演ということで、最後の演目として『修禅寺物語』がすえられているが、歌舞伎の興行としては極めて異例なことである。歌舞伎座あたりでは、昼の部の一番目の演目としてすえられ、夜叉王にはそれなりに座頭格の役者が出演するものの共演者は若手花形が出るような華やかさはない。むしろ綺堂の難しい台詞を自在に操ることのできる地味ながら実力派の出番というイメージが強い。食事時間前の1時間程度で終わる最初の芝居というとらえ方である。むしろその後の舞踊劇や人気役者の出演する世話物がメインという印象で、『修禅寺物語』を楽しみにしているという観客は少数派であるし、岡本綺堂の描いた巧みな劇世界が理解できている観客かといえば、なんとも心許ないのである。

 12月の国立劇場では、夜叉王の吉右衛門はともかくも、共演の芝雀、錦之助、歌昇、歌六、魁春、段四郎、富十郎と地味な出演者で、必ずしも考えらっる限りの最高の配役が組めるわけではない。南座の顔見世、歌舞伎座のさよなら公演など、歌舞伎俳優はフル回転なので、ある程度のレベルで妥協しなければならないのである。オペラは初日に限ってみれば、すべての配役について最高の顔ぶれだったといえる。それ故にこそ、本家本元の歌舞伎では、けっして伝えられないような作品の真価が深い感動とともに客席に伝わってきた。見事である。だからこそ、歌舞伎における新歌舞伎の扱いに暗澹たる気持にもなった。

 作品のテーマは、芸術至上主義の夜叉王と上昇志向の強い桂、さらには悲劇の将軍頼家の末路といったところだが、音楽はそれを語って雄弁である。夜叉王の職人気質は妹に、亡き母親の都人気質は姉の桂にといっていたものが、最後に狂気に満ちたお互いこれ以上似た気質はない親子であったことが判る幕切れの凄さまじさは歌舞伎の比ではなかった。 

 さて劇場に入るとグレーのオペラカーテン。その上部に字幕が映し出される横長のスクリーン。中劇場の中通路からは上手と下手に舞台に向かって手すりのついた通路というか脇花道?があるのだが、その盲腸のような短い花道の壁側には、新国立劇場のロゴマークが染め抜かれた揚幕がある。このオペラの初演の演出は、武智鉄二だが、その薫陶を受けた坂田藤十郎が今回演出を担当した。若杉弘に口説き落とされたようだが、若杉芸術監督は極力歌舞伎の舞台に近いものにとの要望だったようである。

 緞帳が上に上がると、歌舞伎で見慣れた舞台装置である。美術や衣裳が松竹の本職なのだから当然なのだが、衣裳、小道具、化粧法まで歌舞伎そのままである。唯一、照明だけは沢田祐二でオペラの世界の人だと言える。舞台装置はプロセニアムの大きさに合わせ、高さや奥行きのあるものだが、基本線は歌舞伎のものである。照明効果を考えてか、歌舞伎のように舞台床そのままでなく、歌舞伎流にいえば地がすりが敷きつめられていることが違うだけである。

 オペラ歌手が、よくぞここまでというくらい歌舞伎役者同等に所作がきまっていて驚く。おさまるべき場所に役者がおさまるということは、歌舞伎役者にとってはなんでもないことだろが素人には無理である。今回の舞台の隅々まで藤十郎の目が行き届いているのがよく判る。歌舞伎ファン以外には、なんでもないことだろうが、居所がピタリときまっていて凄い。

 妹役の夜叉王の娘かえでは春彦と結婚している。だから眉がなくお歯黒をつけている。既婚者だからといって時代劇のTVドラマだって、眉を落としお歯黒なんかつけない。現代人にはグロテスクに映るからであろう。徹底している。さらに驚いたのは、第2幕である。月の光や川のせせらぎが音楽で見事に表現されているのは、さすがにドビュッシーに影響を受けた清水脩だけのことはあるが、なんと効果音として舞台上から虫の音が聞こえてきたのである。それがオーケストラの奏でる音楽と見事に調和して、日本の秋の夜を描写して感動的だった。今までオペラの舞台で虫の音を聞いたことがなかったので新鮮に思えた。金窪の登場時に虫の音が消えるという伏線があるにせよ、西洋のオペラでは考えられないことだけに藤十郎のオリジナル演出なのだとすれば素晴らしいことだ。

 スピントの声で歌い続けなければならない主役の二人には至難の役であろうが、桂の横山恵子、頼家の福井敬ともに素晴らしい歌唱と演技で堪能させてくれた。音楽と歌唱の意味がシンクロしあうというオペラでは当たり前のことが、よく意味の理解できる日本語で自然に歌われたので、歌舞伎の台詞だけでは表現できえなかった世界が広がったように思う。横山恵子は歌江を思わせる女形のような存在感があり、白石加代子のような狂気の世界をも感じさせてなかなかの好演である。第3幕の着物の裾を引きずるようになった途端に動きが不自然になってしまい、カーテンコールではドタバタと見苦しかったのが残念だった。福井敬は意外や意外に白塗りの貴公子がピッタリ。もっともトレードマークの髭を剃っていないで白く塗りつぶした形になり、せっかくの二枚目ぶりが台無しだった。

 夜叉王の木村俊光は、歌唱も演技も重厚さには欠けるような気もしたが、小粒ながら座頭の貫禄はあって見事にオペラの最後を締めくくった。楓の天羽明恵は容姿では損な役回りだが要所では存在感のある歌唱で不足がない。春彦の樋口達哉、下田五郎の土崎譲、金窪の若林、僧の竹澤嘉明といずれも好演して、高水準の舞台に貢献した。惜しむらくはさすがに第2幕の立ち回りは素人臭く、手順もまごついていたのが残念といえば残念。スタッフには藤十郎の弟子である鴈之助や鴈成の名前があったのでメイクだけでなく、立ち回りも指導したのだろうか。ロビーには藤十郎夫人の扇千景がいた。カーテンコールでは指揮者の次に藤十郎が登場。黒っぽいスーツに黒いシャツとなかなかお洒落だった。

 チケットの残りは少ないようだが、歌舞伎ファンには是非ともご覧になっていただきたいオペラである。またオペラファンにも12月の国立劇場の歌舞伎版をご覧頂き、オペラがいかに高水準だったか実感していただきたいと思う。

【指 揮】外山 雄三
【演 出】坂田 藤十郎
【美 術】前田 剛
【衣 装】宮永 晃久
【照 明】沢田 祐二

【芸術監督】若杉 弘

【管弦楽】東京交響楽団

【源左金吾頼家】    福井敬  
【面作師夜叉王】    木村俊光 
【夜叉王の娘かつら】  横山惠子 
【夜叉王の娘かえで】  天羽明恵 
【かえでの婿春彦】   樋口達哉 
【下田五郎景安】    土崎 譲  
【金窪兵衛尉行親】   若林 勉  
【修禅寺の僧】     竹澤嘉明 
【軍 兵】     細岡雅哉/大木太郎/三戸大久

第1場 18:30~19:25

休憩   25分

第2場・第3場 19:50~20:45
 

2009-06-25 23:36
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