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国立劇場・歌舞伎雑感 [エッセイ]2010-01-16 [エッセイ アーカイブス]

 今日は国立劇場で「通し狂言 旭輝黄金鯱(あさひにかがやくきんのしゃちほこ)」を観る。菊五郎を中心に、菊之助、松緑などの若手花形と時蔵、團蔵など菊五郎劇団でお馴染みの顔ぶれで、肩の凝らない初芝居である。2階のロビーの無料休憩所にはお茶席が設けられ、立礼席でお点前が披露されていた。天使も20代の後半から30代の終わりまで、週に一度だけだが茶道の稽古をしていたので、最前列でお点前を見学。あんまりに凝視してしまってお嬢さんには気の毒だったかも。雪持の松の小饅頭に、同じく文様の茶碗でいただいた。手際よく点てられなかったのか、湯が冷めていたのか、少々ぬるめで味わいは・・・。天使にも経験があるが、あれだけ大勢を前にすると、いくら稽古を積んでいても緊張するものなのです。

 1階のロビーでは、芝居に因んで名古屋市のブース?が設けられていて、名古屋城築城400年のイベントを盛んに宣伝していた。今回のこの公演も、パートナーシップ事業という位置づけであるらしい。もっとも東京では全く話題になっていないので気の毒ではある。パンフとマスコットキャラクターの「はち丸」のメモパッドのノベルティをもらってしまった。歴女とかが話題のようだが、今年くるブームは「龍馬」と「平城京1300年」であって、けっして名古屋城ではないのだけれど、その辺りの感覚の鈍さが、いかにも大都会?の田舎である名古屋らしい。名古屋城開府400年祭はこんな感じ?とっても微妙…。

 さて芝居の感想は後日にすることにして思い出したことをいくつか。幕開きはお茶畑で茶摘み娘に扮した遊女が踊るという趣向である。舞台は宇治なのだが、富士山の麓の茶畑に囲まれた集落に生まれ育った天使には、とっても懐かしい風景だった。天使の実家の窓からは富士山はこんな感じに見えるのである。

 そんな地区の中学校の運動会では、女子は姉さんかぶりで絣の着物に、赤い襷で「ちゃっきり節」を必ず踊るのである。思春期の少女達が嬉し恥ずかしといった感じ踊るのは悪くない。歌舞伎の脇の女形さんの色気とは、まったく別の色気があった。

 女子は「ちゃっきり節」なのだが、男子は「東海道五十三次」といって、駕籠を担いでリレーしていくという団体競技が待っているのである。男子は全員が人足というこころで、六尺褌一丁で駕籠を担ぐのである。さすがに思春期の少年達に荷が重すぎたのか、天使が中学生になる頃には消滅してしまったけれど、初めて見たときにはあまりの光景に驚いたのなんのって…。菊之助が赤い下帯ひとつで「鯱つかみ」を演じていたので、そんなことを思い出したのである。

 天使の住んでいた地域は、純農村地帯で保守的な土地柄だったからか、他の地域ではとっくになくなっていた競技が残っていたようである。なにしろ、天使が小学一年生だった昭和41年の元旦には、小学校の講堂に集まって「一月一日」を歌い、紅白の落雁をもらった記憶があるのである。「君が代」も歌ったし、「天皇陛下万歳!」の記憶は、さすがにないが翌年から廃止になったところをみると、相当に批判があったに違いないのである。

 そんな土地柄なのだが、柔らかい部分もあって、村の天神様のお祭りでは境内に丸太で組んだ舞台ができて、青年団が「ヤクザ芝居」をやっていた。レコードにあわせて、マドロスやら、股旅者やらの扮装で踊るのである。ちょっとした大衆演劇風なのだが、農作業で日に焼けてお兄さんが、やたらに白粉を塗っているので、なんだかとっても異様な世界になってしまって正視できないような、いたたまれないような思いを味わったものである。 
 
 それも、お正月の行事がなくなったのと同時期に廃れてしまったが、天使の父親は、その「ヤクザ芝居」のスターだったらしく、なにかというと飲み会で踊り始めて、恥ずかしい思いを何度もしたものである。アカの他人がするのは面白がってみていればいいのだが、身内の人間にやられると、恥ずかしくてたまらなくなるのである。菊五郎の「千手観音」ならぬ「金鯱観音」を見ていて、同じような感覚があって、嬉しいような恥ずかしいような懐かしい思いをした。そんな父親の子供なので、そういうのも嫌いではないが、菊之助にも同情したくなるような複雑な思いを抱いた。

2010-01-16 19:27
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勧進帳のコツ? [エッセイ]2010-01-14 [エッセイ アーカイブス]

 ある歌舞伎通の書物に曰く、味わいの深い弁慶とそうでない弁慶を、簡単に見分けるコツは、去り行く弁慶の姿の中に、情けある関守への感謝の心が読みとれるかいなかなのだとか。この芝居の神髄は、小手先の延年の舞や、飛び六法などではない。関守への感謝の有無が芸の厚みをきめるのであるとも書いてあった。

 その尺度で、このところ歌舞伎座で上演された三人の弁慶をふりかえってみると、小手先の技に走りすぎなのは幸四郎。感謝の心が読み取れる芸の厚みでは断然吉右衛門であろうか。團十郎の弁慶は、愚直なまでの不器用さで特殊な弁慶といってもいい。

 それでも彼の弁慶が最も優れているのは、花道を飛び六法で去る姿に、死に向かう覚悟が伺えることである。なるほど、義経も四天王も、そして弁慶にも悲劇的な死が待っているのだった。花道は単なる退場のための通路ではないのである。そうした哀愁が感じられるのが團十郎の弁慶で「男だなあ、武士だなあ」と感心させられる。誰かのように自己陶酔して客席に向かって思い入れたっぷりの礼をしたりしないのがよい。ましてカーテンコールで、花道から再登場などという言語同断な愚かな行為が今のところないのもよい。

 今月は昼の部の前半を見逃したので、もう一度観る予定なのだが、弁慶役者が三人も登場して、それぞれの演目に主演しているのも面白い。石切梶原も三人とも経験済みの役なので、それも含めて日替わりで主役交代などをすれば、見比べに観客がつめかけて大盛況だと思うのだが、そこまで思い切った企画を立案する人はいなかったようである。誰が一番人気なのか一目瞭然となって面白いと思うのだが、昔はあった弁慶・富樫プラス梶原のトリプル・キャスト公演なんて企画してくれればよかったのに。

2010-01-14 23:52
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1月新橋演舞場・2日目雑感 [エッセイ]2010-01-03 [エッセイ アーカイブス]

 5月から歌舞伎座の代替劇場として歌舞伎専用劇場として使用されることが予想されている新橋演舞場の2日目の公演を通しで楽しむ。12月は丸々休館して、歌舞伎の専用化に備え舞台の床を張り替えたらしく、真新しい桧舞台が眩しいほどだった。そのほか2階ロビー中央にあった正方形の休憩スペースが撤去され、ドリンクカウンターが新設された。それに伴い床のカーペットも張り替えられたようだった。さらに舞台プロセニアムの左右にあった休憩時間の案内板が電光掲示板に替わり、文字情報も流れるようになった。もっぱら観劇マナーの徹底を呼びかけたり、売店の案内だったりするが、芝居の字幕表示も可能といえなくもない。もっとも4字から5字のみの表示では、目まぐるしすぎて実用的ではないと思うけれど…。そのほか、今回の改装から変わったのかは判らないが、2階席と3階席の左側にあるモニターがハイビジョンになっていて、撮影するカメラも3CCDのデジタル仕様になったため、画質が格段に上がったようである。

 歌舞伎専用の劇場が3年以上も休館することに対して、あまり危機感がないように思える。今の新橋演舞場が再開場してから四半世紀になろうとしているが、旧・新橋演舞場で上演していた定番公演は、花形歌舞伎を除いて、ことごとく数を減らしたか消滅した。本拠地の劇場をなくすことばかりが原因ではないが。新派、松竹新喜劇、前進座には昔日の面影はない。果たして歌舞伎座の替わりを新橋演舞場がつとめることができるのだろうか。
 
 まず収容人数が大幅に減少する。特に廉価な席は半減以上ではないだろうか。チケットの入手は大変困難になることが予想される。とりあえず、なんとか歌舞伎を観たいと思い立って、たとえ全席売切でも、強い意志さえあれば、幕見席で観る事は今は可能である。新しい歌舞伎ファン、熱心な歌舞伎ファンのための仕組みがある。商売だけのことを考えたら、人件費やらなにやらコストばかり高く、儲からない事業には違いない。それでも、歌舞伎を将来も繁栄させるには絶対に必要なシステムである。それが3年以上もなくなる。大変な危機である。松竹座や博多座のように本席を幕見席用に確保すれば、事足りるというような単純な話ではない。

 さらに劇場が小さくなると、観客との親近感が増して効果的という見方もあるようだが、小さな劇場空間にこだわる某役者のように、演技の質が変化してしまうのではないかと心配である。それに新橋演舞場のデジタル?式の最新照明では、舞台を均一に明るく照らすことができないようである。今月の舞台も例外ではなく、むらがありすぎて歌舞伎座の照明のレベルがいかに高いか思い知らされる。それは舞台装置にもいえて、大阪のフェスティバルホールやザルツブルグの祝祭大劇場に匹敵する幅広いの舞台に飾られた舞台装置に馴れた目からすいると「黒塚」の装置など、狭すぎて物足りない。回り舞台のスピードや迫りの昇降速度など、あまりに機械化が進んでいて、歌舞伎座のようなヒューマンタッチがないのも違和感がある。

  昨年は国立劇場の初日とNHKホールのニューイヤー・オペラコンサートへ出かけたのだが、今年はどうしても海老蔵の挑戦を観たかったからである。海老蔵に獅童、段治郎を除く、猿之助若手という顔合わせの一座である。今回は昼の部に右近が「黒塚」を、夜の部には海老蔵が「伊達の十役」を猿之助直伝で上演するのが話題である。劇評は後日にして寸評を少々。

 「対面」は曽我物なので正月にふさわしく、色々な役柄があるので役者も使いやすいのだろうが、苔のはえたような役者が出てくれないと一向に面白くならない。歌舞伎の研修生が試演会で演じているレベルと大差なしでは悲しい。

 「黒塚」も改めて、猿之助や太郎吾を持ち役にしていた段四郎の偉大さを思い知った感じである。初役の右近に多くを求めるのは無理だとしても、猿之助に後継者として指名された重みを理解して欲しい。もっと努力を、もっと力強さを、もっと深さを、足りないことばかりである。

 「鏡獅子」を海老蔵は、すっかり自分のものにしたようで、安定感があるし、自信といったものも感じられる。それが感動につながらないのが歌舞伎の不思議なところで、まるで踊れていなかった初演の感動を超えることはなかった。

 ここまでて昼の部は終わり。芝居ひとつに、舞踊が二演目という変則な狂言である。それもこれも「伊達の十役」を第一に考えてのことなのだと思う。猿之助初演と同じように大喜利の所作事まで上演すると、5時間半を超える。ちょっとしたワーグナーの楽劇の分量である。21時30分前後に終演させなければならないとなると、16時に開演は必須であるからである。30年前のように、終演が22時過ぎても大丈夫な観客は少なくなっているからだ。

 猿之助の「伊達の十役」初演は、早替わりが好評だった「加賀見山再岩藤」を超える演目をということで企画されたようだった。下町の親しみやすい劇場というイメージの明治座へ初めて足を踏み入れたのもこの演目の初演のときである。猿之助の挑戦が大いに話題だったし、観客を熱くさせる必死さがあった。それに比べれば、海老蔵の人気も立場も安定していて、他の役者から目の敵にされることもなく、恵まれすぎているといってもいいくらいである。

 十役では、ほとんど女形経験のない海老蔵に累など発声に無理があって、観客に失笑されたりしてしまい辛いところである。前半がさっぱり面白くなってくれないのは、慣れない女形のせいばかりでなく、共演者に恵まれていないからでもある。猿之助の初演時には、八汐と祐念上人に鴈治郎、民部に宗十郎という名優が盛り立てててくれたのも大きかった。それに、猿之助自身が舞台上演から遠ざかってしまっているので、少々現代の観客の生理を飲み込めていないのではないかと思えるくらい、スピード感が乏しく、前半は観ていて辛い部分が多すぎた。

 それは立役が活躍する後半が素晴らしかっただけに、余計に前半の失速が惜しまれるのである。弾正、勝元、男之助がいずれも高得点。弾正に「おじいさん、そっくり」という声が掛かったほどだし、勝元の見事さと役へのはまり具合が絶妙である。そして、歌舞伎座の團十郎との競演となった押戻しの眼力の物凄さ。お正月早々から、大変なものを体験してしまったようである。大喜利「垂帽子不器用娘」を観ないで帰ってしまった少なくない観客は大損したと思う。絶対最後まで観るべきである。

 新橋演舞場のファサードの背後には、移転してしまって無人になった日産の本社ビルが建っていた。歌舞伎座もこんな具合なのかと嘆息。帰りに歌舞伎座の前を通ると、昨日同様に歌舞伎座の瓦屋根の上に月がでていた。どうして歌舞伎座がなくなってしまうのか、今でも信じられない。

2010-01-03 23:32
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歌舞伎座さよなら公演 1月歌舞伎座・初日雑感 [エッセイ]2010-01-02 [エッセイ アーカイブス]

 今日は車で歌舞伎座の初日へ。実は湾岸高速を豊洲で下りれば、天使の自宅から一番近い劇場は歌舞伎座なのである。帰りは空いていたので40分足らずで自宅に到着。帰りの道では、反対車線が東京ディズニーリゾートの辺りから大渋滞。 今朝は市川から大渋滞で歌舞伎座には大遅刻して「春調娘七種」は観ることができなかった。これは日を変えて観るつもり。

先月観て感激した歌舞伎座の月の撮影に成功した。明日の夜の部にお出かけの方は、終演後に歌舞伎座の建物を晴海通りを渡ったところで観ることをおすすめしたい。歌舞伎座の冬の月とも、もうお別れなのである。NHKの劇場中継で外観を撮影するためか、場外にライトがいくつも取り付けられて、建物がいつもより美しく浮かび上がっていた。



 さて大ショックは、雀右衛門が初日から体調不良のために休演してしまったこと。場内には昼の部の「勧進帳」の後の幕間に掲示がでたので、ギリギリまで出演が検討されていたのだろうか?なんとか千秋楽だけでも出演できないものかと、ひたすら体調の回復を祈るばかりである。昼の部の低調さに比べて、夜の部は圧倒的に面白い。これで雀右衛門が出てくれていたら文句なしなのだが、非常に残念である。

 筋書によれば、3月と4月の歌舞伎座は3部制なのだとか。料金は、先日までの2部制と同じなのも???で納得しがたいものだが、一人でも多くの観客に最後の歌舞伎座を見せたいなら、あまり商売に走らないことだと思うが、どうだろうか?疑いたくはないが、雀右衛門が当初から出演できる見込みだったかどうかも怪しい。魁春の代役の女帝は、座ったままの振付なので雀右衛門のための演目であることは間違いないし、唄も出演者が詠み込まれているのだが…。客寄せのためだけだったら許し難いことである。

新玉の 春成駒と祝うたる 尽きぬ高砂金銀の 向かい雀の飛び交いてご贔屓重ねる京屋結び 目出度かりける年始め

 さらに今月から歌舞伎座の2階ロビーに七代目松本幸四郎の胸像が飾られることになった。同じ朝倉文夫の作で五代目菊五郎、九代目團十郎、初代左團次らの名優に混じっての展示である。初代吉右衛門、六代目菊五郎すら展示されていないところへ、いくら名優だといっても幸四郎の胸像って…。松本幸四郎家から松竹株式会社へ贈られたという名目なのだが、何故このタイミング?新しい歌舞伎座にも当然飾られますよね?恥を知る人なら当然しないし、辞退する行為だと思うのだが、いかにも幸四郎らしい抜け目のなさである。

 幸四郎は「石切梶原」と「車引」の松王丸への出演。幸四郎の梶原は花道からの出ではなく、八幡宮への参詣をすせて社頭に到着したという心で浅黄幕が落ちるという演出。花道から出ると、参拝もしないまま手水鉢だけを切ってそのまま帰ってしまうトンデモない奴になってしまうからなのだとか…。いかにも幸四郎が考えそうな論理的な演出のようにみえて、歌舞伎独特の論理からは大きく逸脱しているヘンチキ論である。理屈の前に見た目の派手さだと思う。周囲の配役の台詞術が充実していたので楽しめた。

 團十郎が歌舞伎座の最後の「勧進帳」を演じることになった?なにしろ、この1年間で3回目の歌舞伎座上演である。もしかしたら人気演目だけに3月、4月にも上演されるかもしれない。さすがに年齢を重ねただけあって、体力勝負の弁慶では、すべてが手放しで誉められるところばかりではなく、ところどころ素晴らしいのだが、全体では平凡な出来に終わってしまった。とにかくマイ・ペースな弁慶だった。ひょっとして血液型が変わると芸風も変化する?そんな訳はないか…。梅玉の富樫、勘三郎の義経という異色?の顔合わせなのだが、あまり魅力を感じさせないのも辛い。義経が神妙に演じているが、少々声に安定感を欠いていた。梅玉と役を取り替えても面白かったかも。

 「松浦の太鼓」は、客観的に見ると我が儘なトンデモない殿様のお話なので、役者の愛嬌で見せないと面白くない。やはり先代・勘三郎が御機嫌で演じていたもの懐かしい。「明日待たるる その宝船」ということなので年末の話だが正月に相応しくないこともないし、旧暦ならばピッタリの演目ではある。役者が機嫌良く演じてくれれば客席も沸くのだが、吉右衛門はあまり得意としていないのか、少々照れがあるようである。梅玉の大高源吾と歌六の其角、芝雀のお縫は安定していた。

 今月の最大の見物は、なんといっても「車引」である。これを見逃しては(歌舞伎ファンで見逃すような人は最初からいないとは思うが)一生後悔するし、歌舞伎座さよなら公演の白眉である。なんといっても80歳を越えての初役・芝翫の桜丸につきる。見事な六等身で役者向きの大きな特異な顔。昭和歌舞伎の残照といっては失礼になるかもしれないが、今後は絶対に観られない桜丸である。

 吉右衛門の梅王丸と幸四郎の松王丸も60歳を過ぎて、さすがに老いは隠せないが、歌舞伎の荒事のお手本のような舞台を見せてくれていて、もっと早く、この兄弟の共演が実現していたと思わすにいられなかった。そして、80歳になっても探求心を失わない富十郎の時平。従来通りの演じ方であれば無難だし、批判も少ないはずなのだが、敢えて新しい表現に挑戦した姿勢こそ真の芸術家だと思う。その志の高さに脱帽である。

 「京鹿子娘道成寺」は勘三郎らしい道成寺で、超絶技巧をいとも簡単に繰り出すのに、何度も驚嘆させられた。決して所化の言うような絶世の美女ではないが、踊り込むうちにどんどん美しくなっていって驚く。小山三が烏帽子を持って所化で登場し、美味しいところを今月もさらっていった。恐るべき90歳?押戻は團十郎なのだが、「大江戸りぶんぐでっど」の悪夢を思い出してしまって、この部分が上演される度に思い出すかもしれない。困った。

 天使をホラー演技で震撼させ続ける福助のお富と染五郎の与三郎という顔合わせ。ともに初役ではないのだが、結果が予想できないだけに、ちょとしたギャンブルをしているような高揚感…。福助のお富がなかなかよくて、ただの美しい人という感じではなく、頭の中はアレばっかりというのが納得できるような下半身先行型?なお富の造型。福助には、とっても合っていてピッタリすぎて恐いくらい。染五郎の方は、そんなお富に引っ張られるような感じで肉体関係を結んでしまったような若者といった風情なのが好ましかった。

 今日は歌舞伎座の通しだったが、友人のCypressさんもご一緒だった。昨年、夜の部の吉兆の予約をしておいたからというメールが届いた。最愛の人を亡くしてから「吉兆」どころか、様々な食事のシーンが天使から消えてしまっていた。さすがに独り吉兆、独りフレンチ、独り焼き肉なんてできない…。Cypressさんが東京にいたときには、一緒に食事に出掛けることもあったが、最近はすっかりご無沙汰である。



 歌舞伎座の「吉兆」を再び訪れることなどないものと思っていただけに、Cypressさんの心遣いが嬉しかった。たった30分間の食事とはいえ、吉兆だけあって内容が充実し、お値打ち価格なのは相変わらずだった。お正月らしい献立で大いに満足した。店を出たところで、Cypressさんが一言。

「泣かないで」

「どうしてわかるの?…、本当に、ありがとう」と天使。

 感傷的になりそうな天使に釘をさし、ニコニコしながらCypressさんは先に歩いていってしまった。持つべきものは友である。


2010-01-02 23:23
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2009年 劇場の天使賞 中村富十郎、鷹之資、愛子 [エッセイ]2010-01-01 [エッセイ アーカイブス]

 大晦日の忙しさの合間にテレビで紅白歌合戦をチラッチラッと観た。なんでも紅白にはジャニーズ枠というのがあるらしく、今回はその制約を破って、嵐が出演するのが目玉だったのだとか。後で聴いたら矢沢英吉も出たそうな…。聴きたかった。元旦は、いつものように天使の街の有名な寺院へ初詣。例年以上の人出の多さに驚くやらあきれるやら…。天気がよかったのと不景気のせいなのかもしれないが夕方になっても満員電車なみの人混みとは驚きである。

 紅白は途中のニュースで中断後の後半の冒頭だけを観る。なぜか紅白歌合戦のテーマ曲というのがあって「歌の力」というのを久石譲が作曲、指揮して多くの歌手が歌い継いだ。曲自体が良いとも思えないのだが、SMAPが歌い出しに失敗して???という作曲者の表情が可笑しかったのと、アンジェラ・アキが抜群に上手かったのが印象的。その後に出てきた、例のスーザン・ボイル。ボイルに英語で話しかけて全然通じなかったのは、彼女が英国なまり?の英語を使う人だから?とにかく笑えた。スーザン・ボイルは正直すぎるし、カメラの方を全然意識していない受け答えも素人みたいだった。

 彼女は、まだまだプロとアマチュアの中間という感じで、完璧な歌唱とは言い難い面もあるのだが、それ以前に彼女の歌には、プロ以上の純粋なハートがあって、心打たれた。すれっからし?の天使の頬に、何故か涙が頬を伝っていたなんて…。これはもう驚くしかない、しかもテレビなのに。スーザン・ボイルって何者?さんざん例のコンテストの映像は観ているはずなのに…。紅白でこんなに泣いて観たのは初めてである。

 その後は、忙しさに舞い戻り、再びテレビをチラッと観たのは、マイケル・ジャクソンの追悼コーナーだった。またしてもSMAP!マイケル・ジャクソンと同じ振付家の振付けだというのに、キムタクとマイケルの何という差?あらためてマイケル・ジャクソンの偉大さを教えてもらったようなものである。というところで、2009年の劇場の天使賞は「マイケル・ジャクソン」で決まり!とならないのが劇場の天使賞である。

 やはり歌舞伎の舞台から、中村富十郎の矢車会の舞台での感動を「劇場の天使賞」としたい。もちろん2009年を通じて、80歳になる中村富十郎が次々に繰り出した名舞台が大きな力になるが、その80歳の父親を奮起させる原動力となった、最愛の二人の子供、鷹之資、愛子の存在も大きいのは間違いがない。

 この子達のためにも、という想いが今の富十郎を支えている。二人の為にも、「一分一秒でも長く生きて、自分の芸を伝えていかねば」という決意がヒシヒシと伝わってくるのである。その想いに答えるべく、矢車会での義経、仔獅子を演じて素晴らしかった鷹之資。「一休禅師」で恐るべき色気を持った子役ぶりを初舞台で披露した愛子。この三人を2009年の劇場の天使賞といたします。

 どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

2010-01-01 19:02
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12月のMVP 渡邊愛子 [エッセイ]2009-12-30 [エッセイ アーカイブス]

 今月のMVPに最有力視されていたのは、コンテンポラリーの最新作を踊ったシルヴィ・ギエムだった。ところが終わってみれば、天使を最も感動させたのは、中村富十郎の愛娘・渡邊愛子だった。

 5月の矢車会で芝翫と踊った『雪傾城』では、ただ出演しただけ?といった感じだったのに、半年の間に幼児は驚くべき成長をみせた。国立劇場で富十郎と踊った『一休禅師』の禿で初舞台を踏んだ。今年80歳の富十郎が74歳の時の子供だというから6歳になるだろうか。

 子供らしい素直な踊りなのだが、時折見せる表情の実に艶やかだったことに驚いた。富十郎の希望では、将来は舞踊家にということらしいが、吾妻徳穂の孫だけあって、その素質は十分にあるとみた。その大物?の片鱗を、わずか6歳にしてみせたことを長く記憶しておきたい。

2009-12-30 00:00
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歌舞伎よどこへ? [エッセイ]2009-12-27 [エッセイ アーカイブス]

 昨年から今年へかけて、中学、高校、大学の同窓会があった。さすがに三十年以上の歳月が流れると、学友とは没交渉で、誰が誰やらという状態だった。自己紹介の時間などがあり、歌舞伎を観るのが趣味などと話すと大いに不思議がられた。驚いたことに、中学の同級生には、今まで誰も歌舞伎を観たことのある人間がいなかった。高校、大学も同様である。一生歌舞伎に縁のないまま死んでしまう人が大多数なのだと改めて思い知らされた。

 天使は両親を二十年以上も前に一度だけ、歌舞伎座に招待したことがあって、せっかく一等席を奮発したのに、後日に同じく招待した帝国劇場の美空ひばり公演の方が、強く印象に残っていたようでガッカリしたものだった。それからは、上京の折には藤山寛美の松竹新喜劇へよく連れていった。おかげで寛美の至芸を数多く楽しめたのだが・・・。

 お正月のNHKといえば、歌舞伎ファンのお楽しみは歌舞伎の生中継だろう。来年も「こいつぁ春から~初芝居生中継~」としてNHK教育で2010年 1月 2日(土)午後7:00~10:00まで放送される。勘三郎の「京鹿子娘道成寺」「車引」などのほかに、演舞場、浅草公会堂の模様も紹介されるらしい。さらに、3日(日)のBS2では、12時10分から国立劇場の初春歌舞伎公演「旭輝黄金鯱(あさひにかがやく きんのしゃちほこ)」が、冒頭を除いて、ほぼ完全な形で生中継されるらしい。どちらの時間も天使は劇場にいるので、ライブで観ることはできないのだが、日頃の冷遇に比べ、お正月以外では考えられない待遇のよさではある。

 年に一度とはいえ、全国各地で東京の歌舞伎が楽しめるのだから、めでたいことではあるが、果たしてどれほどの人がこの番組を観るのだろうか。視聴率は限りなくゼロに近いに違いない。残念なことだが、これが現実だと思う。歌舞伎座や国立劇場へ多数のスタッフを派遣し、生中継をするとなると、どれだけ金がかかることか…。それで低視聴率では、泣きっ面に蜂である。それでもNHKが、なんとか歌舞伎の生中継を存続させていてくれることは喜ばしい限りである。

 来年は現在の歌舞伎座からの初春大歌舞伎の生中継が最後である。以前はもっと放送時間が長く、歌舞伎座の玄関で歌右衛門が折り目正しく「新年明けましておめでとう存じます」と挨拶をしたり、白鸚の「石切梶原」で、開幕前、大庭を演じる現・幸四郎の楽屋にカメラが潜入したりとか凝った演出があったように思う。お正月だから歌舞伎でも、一年に一度ぐらい観るかという観客の多い初春興行だが、果たしてテレビ中継が新しい観客を呼ぶことに役立っていたのかどうか…。副音声で解説がついていても、やはり難解で退屈なもの、素人には敷居の高い場所という先入観があるのだろうと思う。

 新しい観客を呼び込むために、さまざまな試みがなされたが、来年の正月は演舞場で猿之助が再創造した歌舞伎を受け継いで海老蔵が「伊達の十役」に挑戦する。大喜利 「垂帽子不器用娘」 も初演時同様に上演されるのも注目される。猿之助が体力・気力が最も充実していた時に初演された人気演目に再びふれることができるのも嬉しい。
 
 猿之助の復活狂言の継承は、勘三郎あたりが演じてくれるとピッタリだと思うのだが、平成中村座やら現代劇作家・演出家とのコラボとか勘三郎の興味は別方向なのが残念でならない。唯一、歌舞伎の新作を提供し続ける勘三郎の志は評価しても、結果をともなっていないのは歯がゆいし、歌舞伎での決定版ともいえる当たり役中の当たり役がないのも辛い。「歌舞伎よどこへ?」という問いかけは「勘三郎よどこへ?」という呼びかけと同じような気がしている。           

2009-12-27 23:17
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歌舞伎座のCSとCD [エッセイ]2009-12-17 [エッセイ アーカイブス]

 今時の企業で、CS(顧客満足)を推進していないところを探すのは難しい。企業が全社的にカスタマーサービスに力を入れるのは、もはや当たり前である。最近はCS(顧客満足)よりもCD(顧客感動:Customer Delight)だと言う人もいる。その企業活動を通して、顧客に喜びや感動を得られたとしたら、素晴らしいことである。

 企業経営だけではなく、舞台芸術にもCD(顧客感動:Customer Delight)が最も大切なのではないかと思えるようになってきた。舞台を通じて観客に生きる喜びや感動を届けられないとしたら、その劇団なり、劇場は存在価値を失うのではないか。

 歌舞伎に新作が必要というのは当然のことである。しかしながら、松竹は歌舞伎が書ける作者の育成をしてこなかった。とても手間がかかるからである。「書く場がない=生活できない」としたら、優秀な才能は歌舞伎には集らない。そこで手っ取り早く、現代演劇の旗手と呼ばれる人気作家へ気軽に歌舞伎の新作を委嘱する。劇作や演出の才能はあっても、歌舞伎の劇作法を知らない素人同然のニワカ歌舞伎作家に歌舞伎の観客を満足させ、さらに喜びや感動を与えられる作品が簡単に生み出せるはずがない。かくして汚物のような未熟な舞台が量産されることとなった。その多くが勘三郎がらみというのも興味深いことではある。芸能界のお友達?に歌舞伎座へ登場の機会を与えて、恩を売っている?あるいは、いい気持ちになっているだけなのかもしれない。

 やはり自分の土俵ではなく、歌舞伎の世界の決まりごとにのとって、それでもなお、長年の歌舞伎の観客を唸らせるような作品が書かれることが一番望ましい。劇作家の人気で集る一過性の客で興行的に成功であっても、彼らは歌舞伎の観客として定着は絶対にしてくれない。どちらを大切にするべきか、答えはもう出ているはずである。

 宮藤官九郎の小部屋の中の引き出しの三段目の日記帖

2009-12-17 22:14
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劇場の天使 蕎麦を33年ぶりに手打ちする [エッセイ]2009-12-16 [エッセイ アーカイブス]

 歌舞伎座の正面玄関の左側、昭和通りの方向に「歌舞伎座そば」がある。その存在は、もちろん知っていたのだが、歌舞伎座には、いつも二人で行っていたので、入る機会がなかったのである。それがパートナーを失い、独りで歌舞伎座に出かけるのが習慣になったある日、同年代の女性がチケットを券売機で買っているのを見て、なんとなく天使も続けてチケットを買ってしまって、女性の後に続いた。こうした蕎麦屋に独りで入るのは、なかなか勇気がいる。

 何を食べればいいのか判らないので、値段だけで当てずっぽうでボタンを押した。出てきたのは「大盛りかき揚げ」だった。「大盛」の文字にしまったと思ったが、買ってしまったのは仕方がない。とにかく中に入ると、けっこう混んでいて、逆Lの字型のカウンターはお客でいっぱい。席が空くのを壁側の椅子に座って待つのがルールのようだった。

 空いた席に、待っているお客が次々に座っていくシステムである。天使の順番が来て、椅子に腰掛けチケットを渡す。カウンターの中には、サービス担当中年女性と蕎麦の調理担当の男性がいる。時間帯によって増減があるようだが、あまり通いつめているのではない天使は、よく知らない。

 立ち食い蕎麦なんかとは違って、ぐらぐらと煮立った釜の中に生蕎麦を入れ、煮立たせる。2分ほど茹でて、水で洗い?冷水?で締めるという本格的な工程だった。大きな丸いざるに盛られた蕎麦は、注文のたびに小さなざるに盛られたり、かけ蕎麦になっていく。丸い自家製の揚げたて?のかき揚げは、ちぎられて蕎麦の上に乗せられて供される。

 サービスを担当する女性は、注文が入るとサッとそばつゆやネギをだし、食べ終わる頃には蕎麦湯をさりげなく用意してくれる。お手ごろ価格なのに美味しい。何しろ小さな店なので、じっくりゆっくり食べられないのが難点といえば難点なのと、基本的に土・日にしか歌舞伎座にでかけないので、なかなか食べる機会がないのが残念である。
 
 さて天使の生まれた富士山麓の村では、慶弔を問わずに蕎麦を食べる習慣がある。天使は子供の頃から手打ち蕎麦を作っていた。18歳で進学のために上京してからは、打つ機会がなくなってしまったが、今日は33年ぶりに蕎麦を手打ちしてみた。案外作り方を忘れていないし、ちょっと固めだったし、なかなか細くきれなかったが、試食してみるとなかなかいけるではないか。今年の大晦日は、再び手打ちで年越し蕎麦をつくるかもしれない。

2009-12-16 23:52
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再上映 「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を予約する [エッセイ] [エッセイ アーカイブス]

 「映画なんて、どこで観ても同じ」なんていうことは全然ないことを、思い知らされた「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」。地元のシネコンのラジカセ並みの音響は別にしても、映像がクリアでも音響のバランスが悪かったり、音響が良くても映像が・・・。

 そこで待望の再上映を機会に、関東近郊で音響や映像に定評のある劇場を巡ってみることにした。まず、「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」のために、さらに音響を調整したと豪語する立川シネマ・ツーに出掛けることに。チケットは12月10日(木)から、ウェブリザーブで発売中である。国内最高という評価を得たらしいので、大いに期待している。
 
 次に圧倒的にクリアで迫力のある「109シネマズ川崎のIMAXシアター」で観ることにした。本当は、埼玉にあるもうひとつのIMAシアターである「109シネマズ菖蒲」に行きたかったのだが、今回は同じ日に巡礼するというのが目的なので、立川とJR南武線で結ばれている川崎で観ることにした。そこで、もう発売されているチケットを予約した。

 当日は10時から立川シネマ・ツーで、すぐに川崎に移動して13時15分から川崎IMAXシアターで観る予定である。しかも、最後には女性オペラ歌手と同じ名前の村を通っていく隣町のシネコンで締めくくる予定なのである。チュッパチャップスをバッグに忍ばせ大移動の一日になると思う。楽しみだ。

2009-12-15 23:08
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